26 喧嘩
夕方の作業が飽和状態の時に、出版社で男の先輩と口論をしてしまった。とても後味悪くてひどく落ち込んでしまい、部屋に帰ってきても気分が落ち着かない。
ビールを飲んでみたけれど、美味しくないし酔えない。それでも二缶空けてから、夕食を簡単に済ませた。こんな時には、ユージに愚痴メールでも送りたいのをぐっと我慢してみる。嫌な気分のまま一方的な言葉を放ってもろくな事がない。それでもたぶん、ユージは優しく聞いてくれたりするのだから、あたしはつい甘えてしまう。それに、ユージは今、自分の抱えている問題で精一杯なのだろうから、甘える訳にはいかない。
代わりにルイちゃんにメールをした。女同士なら判ってくれると想ったのだ。
でも、ルイちゃんからの返信はなかった。あたしは、自分の一連の行動に自己嫌悪を感じながら、またビールに手を伸ばした。悪い癖だ。
今日の口論は、冷静になって考えれば、あたしの方が悪い。それを後になって気付くのだから、余計に落ち込んでしまうのだ。仕事のことで感情的になることはいけないことだと判りつつ、つい感情の方が冷静な判断より勝ってしまったのだ。
声を荒げた自分にも驚いたけれど、それに対して感情を剥き出しにした相手にも驚いて取りつく島もなくなってしまった時に、タイミングよく編集長が間に入ってくれた。あたしは、その瞬間に急激に感情のやり場をなくして、訳もなく泣きそうになってしまった。情緒不安定なのかもしれない。
何が不安なのか判らないから、余計に不安になるのだ。ここ一年くらいは、色々なことがあり過ぎて、自分でも抱え切れないものを少しずつ取りこぼしているような焦燥感に突然襲われたりする。心にすきま風が吹いているようで、それを塞ごうとして穴の開いた所を探すのだが、それが余計に負の連鎖を呼び寄せてしまっていることがある。今日はまさにそんな日だった。
夜の11時を少し廻った頃にルイちゃんから返信メールが来た。
<ユキちゃんらしくないね。どうしたの?
仕事での揉め事はイヤだけれど、何が原因だったのかな。
あまり感情的になると、どんどん悪い方に流れていっちゃうよ。
よかったら、まだ起きているから、電話してね。>
という、短いものだった。
あたしはルイちゃんの言葉に甘えて、すぐに電話をした。
『あっ、こんな遅い時間にごめんね』
『ううん、いいの』
ルイちゃんは、相変わらずの穏やかな口調でそう言ったけれど、どこか疲れているようにも感じる。
あたしは、挨拶も程々に、その出来事の詳細を話した。少し声が強かったかもしれないと感じたけれど、抑えられなかった。
『う〜ん、難しいね。仕事のことはよく判らないけど、どちらかと言うとやっぱりユキちゃんの方が悪いよ』
客観的にそう言ったルイちゃんの言葉が意外だったので、あたしは返答に困ってしまい、しばらくは沈黙に頼るしかなかった。
『やっぱり、そうなのかな。確かにあたしは半人前なのに、生意気なことを言ってしまったと自分でも想っているけど、でもあの人もあそこまで感情的に言わなくてもいいと想うんだけど』
それについては、ルイちゃんは何も言わずにただ聞いている様子だった。
『誰でもピリピリしてしまって、感情を抑えられない時はあるじゃない。まさにそんな感じで、タイミングが悪かったと言えばそれまでなんだけど、男の人の荒げた声って暴力に感じるんだよね』
『でもさ、根本的な原因は、ユキちゃんの方にあるみたいだから、それについても考えた方がいいよ』
『意外。ルイちゃんは、あたしの見方だと想っていたのに』
あたしは、自分の放ったその言葉をすぐにでも取り消したい衝動に襲われた。言ったそばから後悔した。
『ごめん。ルイちゃんを責めるのは違うよね』
『何だか、今日のユキちゃん、少し変だよ』
『うん、変かもしれない。でも、そういう時ってあるじゃない。誰でも』
またしても、モヤモヤした頭から直接、心のフィルターを通さずに、直に感情を剥き出しに声を昂らせてしまった。
また気まずい沈黙が、電話を通して二人の間に横たわった。あたしは、少し冷静になろうと深呼吸をしてみた。ルイちゃんは、電話の向こうで黙ったままだ。
『ルイちゃん、ごめんね』
『ううん、あたしもね。何だか調子悪くて、きついこと言ったみたい』
『ルイちゃんも負の状態なんだね』
『そうかもしれない。ちょっと疲れているの。色んなことがうまく行かなくて躓いてばかりなの。転んで心のあちこち怪我しているみたい』
『そんな時に電話なんかして、ほんとごめんね』
『いいの。あたしもユキちゃんの声を聞けば落ち着くかなってどこかで想っていたから、お互い様かもね』
『そう言ってくれると救われる』
『感情をコントロールするって、難しいよね』
『危なく、ルイちゃんとも喧嘩するところだった』
『そう言えば、二人で喧嘩したことないね』
そうなのだ。いつでも、あたしより歳下のルイちゃんの方が自分を抑えてくれているんじゃないだろうかと想う。
あたしは、ついそれに甘えて自分を貫こうとする癖が出てしまう。いつでもルイちゃんがそれを感じて、取り繕ってくれていたんだ。
ユージの場合は、年齢的にも精神的にも遥かに大人なので、どんなにあたしが感情的になっても、いつでも喧嘩にすらならない。時にはユージも感情を剥き出しにして口論でもしてみたい気もする。喧嘩をしてみて、その後の仲直りを味わってみたいなんて贅沢な悩みだろうか。
『ルイちゃんも色々あるんだね』
『そりゃ、ね。生きていれば、誰だって色々あるよ』
『だよね。あたしバカみたいなこと言っている。自分本位なんだね』
『私だって、すべてを投げ出して、どうにでもなれって。そうな時もあるんだよ。それをあまり見せないけれどね』
『ルイちゃんは、強いよね』
『強くなんかぜんぜんないよ。強くないから、踏ん張って生きようと必死になっているのかもしれない。もっと感情を表に出せたら楽かもしれないと時々感じるよ。でもねそれが出来ないの』
『やっぱり強いんだよ。少なくともあたしよりは。あたしは自分の感情を抑えるなんて出来ないもん。すぐ顔に出ちゃうし』
『そこがユキちゃんのいい所だよ。自分を隠さない。想っていることを口にするって、なかなか出来ないことだよ』
『ルイちゃんは、いつも内に秘めちゃうのかな』
『うん、人には、何を考えているのか判らないって、よく言われる』
『二人はまったく逆で、出し過ぎちゃうあたしと出せないルイちゃん。ちょうどいい具合になれればいいのにね』
『そう。うまくいかないから、お互いに引き合うんじゃないかな』
『ルイちゃんには失礼だけれど、人間関係がうまく築けない者同士で、お互いを学びの教科書にしている部分はあるかもね』
『うん、親友なんて言える人は私には今までいなかったから、ユキちゃんの存在はとても大きいよ。私の何かを引き出してくれていると想う。感謝しています』
『感謝するのは、あたしの方だよ』
あたしは、我が儘だし、自己中心的な所がある。それを自制出来ない部分もあるから、自分を抑制するルイちゃんみたいな人を知らず知らずに傷つけていることもあるかもしれない。いつもと違って弱っているルイちゃんと話をしていて、そう感じる。
もしかしたら、喧嘩することも時には必要なのかもしれない。相手の本音が引き出せることだってあるのだし。ついさっきのように、気まずい雰囲気になると、お互いの間に流れる空気の温度差を無視することが出来ない。
ユージとは、まだ喧嘩らしいことは一度もしていない。そこに少なからずの測ることの出来ない距離を感じているのは否めない。まだ、あたしの中にまだ何かを疑う気持ちが残されているのかもしれない。言いたいことを遠慮なく言ってもらえることで、安心することもある。ふと、そんなことを感じてしまった。
27へつづく
なんて、妄想フィックション25のつづきです。喧嘩なんて、子供の頃からあまりした記憶がない。ボクはずっと内に秘めるタイプの人間だった。特に幼い頃にそういう癖がついてしまったようだ。大人の顔色を伺いながら、いつも気を遣っていた。ので、自分の主張とかをしなかった。言われるがまま、仕向けられるがままだった。そういう因果か、大人になってから主張を始めたので、かなり強引な感じがある。まっすくストレートな言動が、人との衝突を招くのだ。これは喧嘩というより、寛解の相違のような取り返しのつかないことになる。相容れない状態になると、もうその人とは縁が切れるような不器用なまでのあり方に自分でも大きく反省を促す。喧嘩をして、仲直りなんて、してみたいものだ。