WOW SPRING的ウツウツ生活

地球は今日も生きている。そこでぼくらは生きている。生命すべてが平等である。
地球がぼくらを育ててる。ぼくはその恵みに感謝する。心に笑顔と、ありがとう。
スキニー・ジーンズ履く歳かい

先日、大学生になる甥っ子と一緒に、近所に出来たショピング・モールに出掛けた。まあ友達みたな関係だ。ボクは名前で呼ばれている。


叔父としての威厳など少しもないし、エラそうな態度もしないから、フランクに話をしてくれる。そりゃ、別にエラくないんだから当然。


そこの某ユ○クロは見たこともないスゴい広さで、甥っ子と二人で色々と見た。ボクは年甲斐もなくスキニー・ジーンズを買ってしまう。



これは甥っ子とお揃いだ。笑っちゃうよね。四捨五入すれば50になるおっさんが若者みたいに、お尻などがクッキリ食い込むのを履く。


お前さん、いい加減に歳を考えなさいよ。と声が聞こえてくる。親にもそろそろ年相応の格好をしなさい、と意見されたりしているのだ。


ファッションの感覚は高校生の頃と変わらないけれど、ボクは自分の年齢を認識しつつ、恥ずかしくない程度の服装をしているつもりだ。



だがしかし、股上も短くぴったりフィットしたスキニーを履くと腹がポコっとやらかしてくれるのだ。これは現実として受け入れている。


でも、これを機会にダイエットをしようと想っている。つい2、3年前までボクは腹筋も割れて二十歳くらいと同じウェストをしていた。


それが、ここ数年は薬の副作用などで過食になって、更に運動不足で自分でも経験のない体重になってしまった。これはヤバいと感じる。



昔のボクはロッケン・ローラーのように、スリム・ジーンズしか履かなかった。ウエストも28インチだ。それが今は29オンチなのだ。


しかもジーンズの上にお腹が乗る具合だ。こんなのフザケンナという感じだ。もう覚悟を決めて絞るしかないのだ。目標が出来て嬉しい。


今まさに人生の目標を見失った自分にとっては、有り難い試練だ。自堕落な生活からの脱出。その第一歩がダイエットになるのが切ない。



このままギターを抱えてステージに立ちたくなるような格好だ。紅いジャケットにスキニー・ジーンズ。中身の伴わないカッコ付けだよ。

| 模索 | 00:22 | comments(12) | trackbacks(0)
結婚に熱愛、そりゃよかったね

ここ最近、ネットやテレビの芸能ニュースは、芸能人の結婚や熱愛報道で賑わっているようだ。そりゃめでてぇもんだ、とウンザリでさぁ。


ボクはかなりいい歳だが、結婚も熱愛もぜんぜん縁がない。隣の芝生はよく見えるなんて問題じゃなくて、単純に羨ましくてタマランのだ。


そりゃ、オイラだって、イチャイチャしたい。結婚に関しては殆ど可能性はゼロに近いし、恋愛は、努力や勤勉で実るとは限らないものだ。



それでふと想ったけれど、ボクは好きな女性タレントが結婚した途端に熱が冷めてしまうのだ。『何だよ結婚しちゃうのかいお前さん』と。


かつてボクは松たか子が好きだった。ところがボクと同世代の野郎しかもギタリストと結婚した時は冷めた。ギター演奏も好みじゃないし。


すっかりドラマも観なくなったし、唄も聴かなくなった。ホント小さい男だ。いいではないか、幸せを祝ってやれば、とならず冷めちゃう。



昨日、伊東美咲が某大手会社社長を結婚すると聞いて、また嫉妬した。おいおい、お前さんも金持ちがいいのかい。とガッカリしてしまう。


何だよ、性格のいい子だと想っていたのに。と勝手に思い込んでしまう。その男がいい人かもしれないのに。まあ、ちいせー野郎がボクだ。


あの清純そうな小林麻央が、あの女たらしの歌舞伎役者と熱愛と来たもんだ。なんであんな男がもてるんだ。とまた、ちいせー野郎発揮だ。



ところが、好きな北川景子が山ピーとおテテ繋いでデート報道には微笑んじゃう。山ピーも景子ちゃんも好きだから、結婚しちゃえと想う。


この違いは何だろう?と自分で疑問に感じる。要するに、相手の男がいいヤツなら許せるのだ。お前は父親か!ってな具合だ。おバカな話。


てな訳で、ボクはすっかり恋愛から見放されたケチな野郎です。長い間、独り身の侘しさを味わい尽くして、その状態に飽き飽きしている。


ならさぁ〜、もっといい男になりなよ、って話だよね。ちいせー野郎だから、女性にもてないんじゃなのかい?って気付け、って話ですよ。

そう想いつつ、日々こうしてブログで自己確認をしているのだが、成果がないのはなぜなんだろうか。自分に甘いかもしれないと反省する。

まあ、暗いニュースばかりだから、いいじゃないですか。恋愛話くらい、寛大に応援しようじゃないか。と無理をしている次第であります。
| 試練 | 01:31 | comments(6) | trackbacks(0)
昔、メダカは採って来たもんだ

水に生きる動物が好きなボクは熱帯魚などの他にメダカを飼っている。それも色彩の鮮やかな、その名も『楊貴妃メダカ』という高級な子たちだ。


最近、熱帯魚屋に行くと、メダカ・コーナーも充実していて、高級な種類が豊富に揃い踏みなのだ。高い種類では1匹で千円くらいもしたりする。


この『楊貴妃メダカ』も、そこそこ高級で、1匹400円くらいだろうか。それでもボクはバーゲンの時にまとめて買った。そりゃ、そうだよね。



まず、飼い易い。だってメダカだもん。その辺の綺麗な河なら自然のメダカも生息しているのだ。でも、こういった高級な子たちは、特別だろう。


今はどんな生き物も人の手によって、改良されてしまう。犬や猫は当たり前。熱帯魚も品種改良で値が高くなる。普通のメダカは1匹20円位か。


まず、この『楊貴妃メダカ』は、美しいオレンジをしている。それで水槽のバックにブルウを配したら、より発色が映える。色は組み合わせ次第。


まあ、どうでもいい、ボクの日常の些細な話だ。でもこうした癒しは侮れないのだ。日々精神的に疲弊して行く暮らしの中で、癒しは必要なのだ。


自分なりの工夫次第で、生活は潤う。そこに自己満足や自己完結を求めたら、たぶん勘違いをしてしまうだろう。すべては必然なのだと感謝する。


当たり前のことが出来ないで、それに感謝することも出来ずに、ただ喜びや楽しみを求めても日々、心は癒されない。本当の癒しは、感謝の心だ。


メダカは動きも早いので、いい写真が撮れなかった。おいおい、少しは協力しておくれよ。と頼んでみたが、ボクの言葉は彼らに通じないようだ。


 
| 生活 | 02:33 | comments(4) | trackbacks(0)
アンテナの張り方、その利用法

いよいよ地デジ化が近づいてきて、我が家にも新しいアンテナを立てないといかんのだ。おまけにデジタル対応の録画機も買わなきゃならん。


じゃなくて、地デジのアンテナの話じゃなかった。それは面倒なだけだ。ここで言うアンテナとは、情報をキャッチするためのものってこと。


よく『常にアンテナを張り巡らせて、最新情報をキャッチする』とか表現するアンテナ。感性とか、直感とか、匂いとかいったものだろうか。



でも、ボクはそのような感覚には疎い。あるいは距離を置いている。現代は情報の時代であり、情報過多による混乱も否めない状況に感じる。


そんな中で、常に感度敏感のアンテナを張っていたら、疲れる。新しいモノは常に古くなる宿命を背負って、背中を押されるように世に出る。


ボクはこれには懐疑的なのだ。まず情報を鵜呑みにすることはしない。流行というものを信用していない。『新しい』という感覚が判らない。



まあ、何十年も生きていれば、色々な流行ものを見てきたけれど、どれも時代と共に化石となり、『その』過去の標本として重みは感じない。


興味本位で、ノスタルジック遊びをするにはいいだろう。でも、例えば、建造物とか絵画とか、名作映画とかのような風味は重なってこない。


最新のモノは、時と共に『陳腐』に変身する気がする。それに比べて、普遍的なモノは、時と共に『本物』の深みを増していくように感じる。



ボクもケツの蒼い、心の尖った若造の頃は、アンテナを張り巡らせて、色んな情報や最新の『何か』をキャッチしようとしていた、おバカだ。


そんな頃の最中に、無駄に想えるモノもたくさん手にした。でもこの世に無駄なモノなど一つもない。それを知るためにも必要な時間だった。


それから、未だにおバカには変わりないけれど、本物の匂いみたいなものは感じられるようになってきている気がする。『本物』とは、心だ。



心の存在が見えないモノには、こちらの心も通わない。欲望とか業を惑わすモノにはあまり振り向かなくなってきたようにも感じる。たぶん。


たとえば、ほんの些細な贈り物。それが大切で素敵なモノなのは、送り手の人の心が見えるからだ。心がなかったら、ただのモノでしかない。


昔は『ハズレ』モノを多く手にしてガッカリした。でも、最近『アタリ』モノが多いのは、アンテナに頼らない、自分を信じるあり方だろう。 
| 模索 | 01:22 | comments(8) | trackbacks(0)
家族と命の問題は、厄介で複雑

ボクの友人の母親が昨日の朝、亡くなった。高校生の頃に彼の家に遊びに行くと優しい笑顔で迎えてくれた。もう数十何年も逢っていない。


けれど、ある一人の命が絶えた。この世からあの世に行った。自分の人生を全うしてこの世での役目を終えたのだから、お疲れさまなのだ。


ボクの両親は健在だ。でも、血の繋がりや親子だとか、そういう概念で捉えたとしたら、果たして、家族や親子ってあり方に疑問が生じる。



ボクは父親と判り合えない。それはもう子供の頃から。常に苦しみを与えられ続け、ボクの精神的な苦痛の種であり続けるその人が、親だ。


でも、例えばその人が亡くなったのなら、ボクはどう感じるだろう。まだ判らない。気分が安らぐだろうか。呪縛から解放されるだろうか。


或は、予想に反して悲しいのだろうか。それは考えても始まらない。まだ経験していないのだ。でも血の繋がりには大きな疑問があるのだ。



心の繋がりと血の繋がりの大きな隔たり。この深い溝を埋めるには、ボクの人生で手にいれたものでは足りない。それほどに不可解なのだ。


毎日、同じ屋根の下で暮らしているけれど、心は通じてない父。母と日々話しているけれど、長年連れ添った妻にも変わらないことなのだ。


夫婦や家族って何だ。ボクは血の繋がった兄とも心が通じていない。兄と本音で話をしようとしたけれど、彼は自分を守ることを言うだけ。



ボクは、昨日、母と色々話をした。心のない人はダメ。これが結論だ。父も兄も心がない。自分が一番大事だと想っている人達だと感じる。


命って何だ。人って何だ。別に答えはいらないのだ。ボクと母親は同じ苦しみを共にした戦友だ。心の痛みを共有して、支え合った戦士だ。


だから、自分を守ることにかまける父と兄は戦友ではない。形だけの家族。ただ血が繋がっているというだけの、脆い人間関係でしかない。



何てやるせないことだろう。ボクは結婚もしていないから、妻もいないし子供もいない。この先、一人で孤独死というのも覚悟の内なのだ。


その時、例えば血の繋がった誰かがボクの葬儀を面倒に想うより、ボクの葬儀などはいらない。焼いたら、骨も砕いてどこか撒いてほしい。


ボクの肉体は、ボクの魂が現世で生きるためにお借りした器だ。感謝するのはボク自身だ。人がこの世から去った、という事実だけでいい。 
| | 00:33 | comments(10) | trackbacks(0)
泣きたいとき、なぜか泣けない

15 過去


 あたしはまだ朝早い時間に起きてユージに電話した。どこか近くの日帰り温泉に連れて行ってと。ユージはまだ眠りの中で『どうしたんだ、急に』とちゃんと聞いてくれなかったけれど、結局、車を出してくれた。普段は仕事の機材などを運ぶ時に利用するくらいで、休日とかにユージはあまり車に乗らない。

 それでもあたしの部屋のそばまで迎えに来てくれて、『俺に任せろ』と言わんばかりの自慢げな顔をして、何も言わずに車を走らせた。


 『せっかくの休みなのに、ごめんね』

 あたしは、謙虚にそう言ってみた。

 『なんだ、らしくないな』

 やっぱりユージにはお見通しなのだ。あたしが少し落ち込んでいる時には、ほんの微かな態度の違いにも気付いてくれる。

 『ユキが温泉に行きたいなんて、嬉しいよ』

 『何かね、急に行きたくなったの』

 あたしは、ここ数日の仕事における失敗などで気分が塞いでいたけれど、昨晩を有意義に過ごしたお陰で、少し前向きになっていた。今日はユージに逢いたいと感じたことが嬉しかったのだ。


 東京近郊にも最近はたくさんの温泉施設がある。旅館や民宿でも日帰り温泉をさせてくれる所も多い。ユージはきっとネットか何かで調べてきてくれたのだろう。行き先も教えてくれないので、あたしも何も聞かずに黙って助手席に座っていた。こうした密室感のある中で隣同士で感じる空気には、特別なものがある。あたしはそれを楽しむために、音楽のヴォリュームを低くした。

 話題を探して、何か会話をしていないと気まずい感覚はない。ユージは見た目は若いけれど、落ち着いた年齢になっている。それが横顔や背中などの存在から醸し出されるので、特別に沈黙が重たくならないように、そこにいてくれる。

 何でこんないい人が今まで一人だったんだろう。すでに結婚して、子供が二人くらいいてもおかしくない。いつか自分で言っていたけれど、自分一人の時間も必要だから結婚に向かいなんてことはないと想う。そこまで客観的な考えだけで結婚をしないだろうか。きっと何か理由があるに違いないと想う。


 少し渋滞にもはまったけれど、休日にしてはスムースに車は流れていた。高速を降りてからは小さな山並みの中を縫うようにして国道を走った。ユージの運転は丁寧で快適だったから、あたしは少し眠ってしまった。

 気付いたら目的の場所に着いていた。宿泊施設もある、日帰り温泉。休日ということもあって、人で賑わっていたけれど、お風呂は空いていた。あたしは、のんびりした気分で露天風呂で空を仰いだ。澄んだ青空にトンビのような鳥が円を描いて飛ぶ様子にすばらく見とれて、気持ちのいい汗を流した。


 その施設内で簡単に食事を済ませて、あたしたちはまた車に乗って、当てもなくほんのり紅葉し始めた山の中を走った。

 あたしは、素朴に疑問に想っていたことを口にしてみた。

 『ユージが結婚しない理由は前に聞いたけれど、でも結婚しようと想ったことはないの?そういう年齢を過ぎているでしょ』

 ハンドルを握りながら、ユージが含み笑いをした。

 『お前さん、またその話を蒸し返すのかい』

 『この前は、なぜ結婚しないかの話でしょ。今度は、今までに結婚しようと想ったことはないのかを聞いているの』

 あたしは少し意地になって、語気を強めた。もしかしたら、ユージの過去について知りたいのかもしれない。40前後の年齢になって結婚の匂いがしないのは不思議に感じるのだ。元々謎の多い人だけれど、仕事以外のプライベートな過去についてはあまり語らない。だから余計に知りたくなる。


 『そりゃ、あるよ』

 しばらくしてから、あっさりとそう答えた。

 『昔話を聞きたいのか』

 『うん、聞きたい』

 『そうか』

 そう言うと、ユージはにんまり笑った。その笑いの意味が判らない。あたしは少し馬鹿にされたような気がした。

 『俺だって、恋愛の一つや二つはしてきたよ。よくある話だ。別に面白くもないけれど、それでも聞きたいか』

 『聞きたい。教えて』

 あたしは少し意地になって、ユージの左肩を揺すった。

 『ねえ、教えて』

 『判ったから、揺するな』

 あたしは、笑顔でユージの横顔を見た。真っすぐ前を見ながら車を走らせるその顔に見とれてしまう。特別なイケメンじゃないけれど、すんなりと整った顔立ち。そこに深みが増して魅力となっている。


 『幾つくらいかな。忘れたけれど、俺は真摯にある人を愛していた』

 真摯に愛していたなんてよく言えると想いながら、続きを待った。

 『人を愛することを教えてくれた人だ』

 そこでしばらく間を置いてから、 

 『別にセックスで、どこをどうすると気持ちよくなるとかのテクニックを伝授された訳じゃない』と真面目に言った。

 『ふざけないで、ちゃんと話して』

 ヘラヘラと笑うユージ。真剣に聞いているあたしは、半信半疑になってきた。

 『ふざけてないよ。ちょっと前置きをしておいただけだ。これも話の中では大事な部分になってくるからね』

 あたしは話の続きを待った。

 『その人はコピーライターを仕事にしていた。俺はカメラマン。直接仕事をすることはなかったけれど、間接的には何度も仕事をしていて、その頃はまだあまり意識はしていなかったけれど、ある仕事で深く関わることになってね。それで色々と話をしている内に好きになった。歳は一回りくらい下だった。まだ駆け出しの子』

 ユージの言葉を一つも逃さないように、あたしは音楽の音を消した。

 『彼女とはね、仕事でもプライベートでもよく衝突した。勝ち気と言うか、自分の主張の強い人で、物をはっきり言うんだ。でも、そこが好きでね。徹底的に話をするから、最後には気持ちが融合する感じになるんだ』

 『融合』

 『そう、融合。それはセックスでも同じ。俺たちはたくさんした。その度に得も言われぬ融合する感覚がある。愛しく感じる。この人のために何かしてあげたいと想えるようになる。自分が幸せになることは、この人が幸せを感じてくれることだと想えた。見返りを求めない、捧げる愛。それを惜しみなく自分の中に生むこと。それが愛することだと体を重ねるたびに深く感じた』

 あたしは、突然、嫉妬心を抱いた。あたしの知らないその人に。

 『この人となら、結婚したいと想った。一緒にいたいと。でもね、結局は別れることになっていたんだろうな。そういう役目だったんだ、彼女は。俺に愛を示してくれる人。愛を教えてくれる人。その役目を終えたら、関係も終わる。俺たちは、またそれぞれの道を歩くことに戻ったんだ』

 『よく判らない。なんで別れなくちゃいけないのか』

 『俺にも判らなかったよ。その時は。苦しかった。でもね、今はなんとなくそれが必然的な巡り逢わせだったように想える』

 『必然的な巡り逢わせ?』

 『まあ、暫定的に言葉を選ぶとしたらね。理屈じゃ、説明出来ないことがあるんだよ。その後は、一度も彼女に逢っていない。でも、心のどこかで幸せでいてくれると願っているし、そうあってくれていると信じている』

 あたしは、まだ子供だ。この人に比べたら、まだ歩き出したばかりの子供であって、歩みも頼りない。何に躓くか判らない。どんな怪我をするかも判らない。

 『ユキ、嫉妬しているのか?』

 『いや、別に。嫉妬のしようもないじゃない。そんな素敵な人に』

 『ユキが風俗のバイトをするって言った時あったろう?その時に何も言わなかったのは、ある意味、愛だ。俺はユキのすべてを認めたい。受け入れてあげたい。だから自分で選んだことをしてみて、それが正しいとか間違った選択とかじゃなくて、自分の中に何かを感じることになるのだろうか。そうあってほしいことを願った。それは我慢するとか自分を抑制することじゃなくて、愛に委ねること。愛しているなら、ユキが存在することに肯定的でありたいと想う。だから、ユキが自分の選択を実行に移して、それを経験して以後のユキに逢いたいと想った』

 そんな深い気持ちがあるのは知らなかった。ただ寛容なのだとか、ある種の排他的な考えだとか、漠然と捉えていた。自分の中で問題にしていなかった。

 『ユキはちょっと素敵になったよ。予想通り。やっぱり俺はユキを愛していると感じて嬉しくなった』

 不意にあたしは、その言葉をダイレクトに受けて、涙が出そうになった。

 『誰にだって、過去はある。過去を経ての今なんだから。過去を含めての今を愛することが大切なんだと俺は想う。過去を受け入れるとか、自分を試すとかの問題じゃなくて、もっと純粋にその人の今を、ただ愛せばいいんだとね』

 あたしは言葉を失って、自分の未熟さが恥ずかしくなった。

 『何か感想を言えよ。ご希望通りに話してあげたんだ』

 『何も言えないよ』

 精一杯の言葉を口にしたら、あたしは理由も判らずに泣きそうになった。

 『一人で語って、決まり悪いじゃないか』

 ユージのそのセリフが妙に心地よく響いて、泣くのを我慢した。それが正しいのか素直に泣けばいいのか、どうでもよかった。ただあたしは、簡単に泣いてしまうのを躊躇した。それでも泣かないように唇の震えを堪えているのをユージに気付かれないようにして、

 『素敵な話だよ。ありがとう』

 とだけ言った。

 少しだけ潤んでぼやけた視線を窓の外に向けた。その言葉が素っ気なかったかな、と少しだけ心配になったけれど、しばらくは、景色を眺めることにした。


16へつづく


なんて、妄想フィックション14のつづきです。過去って、時々厄介な感じがする。忘れたい過去もあれば、やり直したい過去もある。過去に戻りたかったり、過去を消したかったり、色々だ。例えば、好きになった人の過去についてどう捉えるか。その人の過去を知りたいか。過去を全部受け入れられるか。これも色々あります。
ともあれ、人には過去があって当然であり、過去があるから、今がある。過去を否定することは、今を否定することに繋がるような気もするのだ。
| フィクション | 02:13 | comments(12) | trackbacks(0)
損得を考えたら、切りがないな

人は、損した得したで、一喜一憂するものなのだろうか。ボクは或る日からそれらに惑わされるのをヤメにした。もう切りがないのだ。


その昔は、ポイントとか集めて、それを利用していかに安く買うかとか、値引きの割りのいい所を探し歩いて、買った頃もあったのだ。


でも結局は、歩き回ったり、調べ回ったりとかのエネルギーを使っているのだから、それらは差し引きゼロになり、チャラになるのだ。



この世は、あるバランスで保たれていて、そのバランスが崩れないようにどこかで帳尻合わせが行われている。それで地球は回ってる。


どうにかして得をしよう、と欲を出すと、どこかで損をする目に遭うのだ。それらは巧みな絡繰りで、すでに仕組まれていると感じる。


欲を出せば、損をする。無欲になれば、いつかは得をしているものかもしれない。ボクは損得を考えて、強欲に生き続けてきただろう。



そのしっぺ返しとして、痛い目に遭う。それで何かを学んで、初めて自分の中の欲というものを目の前に曝される。それで気付くのだ。


何とも抽象的な話だが、損得は、それを意識した時点でもう強欲なアリ地獄に呑み込まれている。その後はズルズル堕ちていくだけだ。


ボクはその息苦しさの中で、多くを学んだはずである。なのにまた同じようにムクムクと自分の中に欲を生み出してしまうヤツなのだ。



そんなことを、ほんの些細な出来事や日常的な行いの中で感じてしまうのは辛いものだ。そろそろ、自分の中の欲と決着を付けたいな。


現代に生きていると、自分の周りは物に溢れている。それらは、どうにか自分で工夫や模索をして手に入れたものだ。お金で買った物。


それらを見渡して、『やれやれ』と想う。自分はどうしたら、これら物から解放されるのか。自分の欲の結果から逃れられるのだろう。 
| 模索 | 02:36 | comments(7) | trackbacks(0)
人にあるのは、差ではなく違い

ボクの好きな吉田拓郎の70年代の名盤である『人生を語らず』というアルバムがぜんぜん発売されずにいた。何だよ、と想っていた。


そこに収録されている『ペニーレインでバーボンを』というこれまた素晴らしい曲の歌詞に一部、差別用語が含まれているせいだった。


それで漸く、その曲だけ削除されて発売されるようなのだが、でもその曲のないアルバムは『人生を語らず』じゃない。未完成なのだ。



このように、最近は憂き目にあう唄や映画などが多い。映画だと、セリフが消えていたりする。でも唄に関しては、そこだけ消せない。


なぜ、このように過敏な時代になったのか。ボクにはよく判らない。何もかもが過敏で、過剰な反応が新たな問題を引き起こす感じだ。


それを差別用語にする方が差別に感じる。人にあるのは差ではなくて、違いだとボクは想う。差に捉えることが、差別意識を生むのだ。



それなりに五体満足な人からすれば、五体不満足な人の気持ちは判らない。そもそも人は自分以外の人の気持ちなど判らないのだろう。


他人の苦しみはその人にしか判らない。所詮、自分しか生きられないなら、理解より認識が必要になる。理解しようとするから間違う。


目の不自由な人はその状態でフラットであり、足の不自由な人はその状態でフラットであり、それを宿命というものとして受け入れる。



体が不自由な状態は、差ではなく、違いであり、個性だとボクは認識している。それを差と捉える意識こそ、差別の本質に感じている。


以前勤めていたデザイン会社には耳の不自由な人がいた。横着なボクは手話を覚えずに彼の巧みな読唇術に任せ、普通に会話していた。


彼の息子さんがバンドを組んだ時、ボクは相談された。息子にベースを買ってあげたいと。音楽を聴けない人には、心で接することだ。



自分の背負うハンデを受け入れて、そこをフラットな状態に捉えて、自分を生きている。その意識が差別をなくすことだとボクは想う。


某24時間テレビなどでは、体の不自由な人の頑張る姿を見て、泣く人が映される。その涙は憐れみにも見える。同情なら残酷である。


彼らは不自由な状態で頑張るのではなく、自分自身を生きていることを認識してあげるのが大切に想う。不自由さに捉える必要はない。



人は皆、自分を生きている。ある意味、自分の性根の悪さに気付かず横柄な振る舞いをしている人の方が不幸だ。幸不幸は差ではない。


飢餓に苦しむ人の姿に涙しながら、自分は暖かい食卓で美味しいものを食べている。そんな勘違いはもういらない。それが差別だから。


大切なことは、感謝の気持ち。当たり前のことに感謝する。人との違いを嘆くよりも自分を見つめる勇気を持つことが大切に想うのだ。


と言う訳で、ボクは大好きなこれらの唄たちが入ったアルバムを持っていない。これこそ冒涜に想える。いい物はいい、でいいだろう。
 

| | 01:22 | comments(6) | trackbacks(0)
唐突に、仏教の本を買ってみた

ボクはかつてはよく本を読んだものだ。特に10代の終わりから20代にかけてはかなり広範囲に海外、国内の古典文学や純文学も読んだ。


ところが、30を過ぎてからは、好きなものしか読まないようになった。それは自分の嗜好が判ってきたからでもある。凡その傾向がある。


そして、40を過ぎてからは、読書する気力が少し失せてきたようだ。精神的な体力がなくなってきたのもある。ウツ状態も影響している。



本格的に読書に入り込めないのだ。エッセイなどは気楽に読めるが、小説などは途中で気持ちが切れてしまう。買って読んでない物が溜る。


本棚には、そんな本として生まれて、その役割を全うしていない本が眠っている。そこで最近、なぜか仏教についての本を2冊買ってみた。


1冊は、宗教学者の中沢新一と心理療法家の河合隼雄の『仏教が好き』という対談もの。1冊は、瀬戸内寂聴の『寂聴仏教塾』というもの。



ボクはもう19歳の頃に心身症やパニック障害、抑うつなどを抱えることになったので、今から30年近く昔。その頃は手掛かりなどない。


そこでボクは精神世界や宗教や宇宙などを入り口にして、色々なものを読んだ。西洋医学などは当てに出来ない、精神病で括られる時代だ。


精神的に参って堕ちている時に、すがるものを探るのだ。井戸の底で微かな光を頼りにどうにか底から這い出るための方法を模索していた。



そして、精神世界や宗教にのめり込むことなく、ある意味それらを俯瞰で眺められるようになって、色んなヒントを見つけることになった。


そこから派生して、日常的な生活に活かせることも自分で発見出来る。宗教はあくまでヒントであって、そこに身を置くものではなかった。


それが救いになった。そういう意味では、仏教というのは受け皿が大きい気がする。そこで30年近く経って、改めて触れてみたくなった。


鬱の人に精神論などは、意味を持たない。逆に精神的な負担になるだけだ。もう自分の中であらゆるものを処理していくしかないのだろう。

こんな時代だからこそ、宗教にすがる気持ちもあるだろうけれど、ボクは特定の宗教の教えを鵜呑みにするのは、むしろ危険な感じがする。

そこは、あくまでヒントや自分の発想を照らす鏡にするのがベターな気がする。そこで寂聴さんの判り易い言葉など、面白く読めてしまう。

| 書物 | 00:33 | comments(10) | trackbacks(0)
日々の睡眠は、快適に取りたい

今日はやけにシンプルなタイトルになった。それもそうだ。ボクは日々睡眠というものに惑わされているのだ。睡眠障害による途中覚醒や悪夢など。


布団に入ってもなかなか寝付けない。眠りに入っても突然パッと目が醒める。眠りに入っていても、苦しく重たい悪夢を見続ける。これが続くのだ。


朝はいつも重たい気分のまま、朝食も美味しくない。午前中に何とか気分を切り替えるようにしている。午后には気持ちを高め、リラックスしたい。



ここ数日は、悪夢の連続で、どれもリアルでセリフや行動などもまるで映画のように感じられる。ホラーのようなその場面に身を置くのは辛いのだ。


そこで、ネットで睡眠障害や悪夢などについて色々と調べてみた。こういう利用に関してはネットは凄く便利である。これこそ文明の利器に感じる。


そこでは、だいたい精神的なストレスなどが挙げられているのは頷ける。医学的にはまだ解明されていないようだが、凡そは精神状態によるだろう。



それに加えて、気になったのは、抗鬱剤などの副作用でも悪夢を見るようなことがあるとのことが書いてあった。なるほど、とはいかないが頷ける。


ともあれ、トラウマや心配事も影響するのなら、仕方ない。それらが自分の中から消えない限り、それらを脳内で整理する作業は続くだろうと想う。


ボクはすっかり、このような状態に慣れているので、ウンザリしたり、絶望したりはしない。肝心なことを理路整然に探求する元気があるのはいい。



今年の始めから数ヶ月は、ボクは酷い鬱状態に陥って、もう毎日苦しくて苦しくて、消えてしまいたい気分に襲われ続けた。もう地獄のような日々。


昨日、その頃の自分のブログを読み返してみたけれど、もう殆ど毎日辛いとか苦しいとかしか書いていない。当然、文章も短い。書けない日もある。


その頃のことを思い起こし、今は随分とよくなった。気分もぜんぜん違う。あの地獄のような日々からすれば、明るく前向きになれる今は有り難い。 
| 試練 | 02:33 | comments(10) | trackbacks(0)
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