WOW SPRING的ウツウツ生活

地球は今日も生きている。そこでぼくらは生きている。生命すべてが平等である。
地球がぼくらを育ててる。ぼくはその恵みに感謝する。心に笑顔と、ありがとう。
植物の生き方に憧れがあるのだ

ボクは、いまの自分に失望している。そして、ボク自身は絶望している。もはや救いもなく、それでも生きている。


とにかく、生きている間は、生き続けることをヤメられない。どんなに苦しくても嘆いても、状況はよくならない。


同じような苦悩を抱えている人と共有出来きても、お互いを知ることは出来ない。



まさに、自分のことは自分でどうにかするしかないのだ。手助けや救いになることはとてもありがたいことである。


それに感謝しつつ、自分を立て直すのは、自分しかいない。病気の治療も医者ではなく、自分自身が治るしかない。


そんな孤独な闘いを何十年も続けていると、人のあり方が見えてきたりするのだ。


                  *


人の心は温かい、という。それに違いはないだろうけれど、それを当てにしてはいけないことを身をもって感じる。


何かを期待などすると、それが1ミリでもズレていたら、余計に失望するのだ。しかもそれは他人のせいではない。


他人を否定しても意味などない。人は、他人との関わりの中で生きているものだ。



いかに、自分にも他人にも嘘偽りなく、自分を体現出来るかだ。ボクはそうやって生きてきて、痛い目にも遭った。


バカ正直になることは、生き方として賢明ではないかもしれないけれど、常に壁に突き当たることが生きることだ。


アメンボウのように、水面をスイスイ生きていけたらいいとは限らないのだろう。


                  *


どんなに人の心が温かいとしても、その人も『自分』を生きているのだ。すべてが合致することなどはあり得ない。


お互いに『違い』があるからこそ、人は想像力のありったけを総動員して、他人への思いやりや心遣いを生むもの。


それが見当違いの場合もある。いや、その殆どが『何か違う』のだとボクは思う。



だから、ボクも人に対して無責任なことなど軽々しく言えない。『あなたの気持ち判ります』など、言えやしない。


厳密には、他人の気持ちなど判る方がオカしい。自分の経験や思考などを参考に、想像することしか出来ないのだ。


そこで、自分には何が出来るのか。その誠意を惜しみなく示すことが大切だろう。


                  *


自分も含め、人は案外いい加減なものだ。知識を得ると、偉くなったような錯覚をする。自分は正しいとも思える。


何かを知っても、苦労をしても、たかが一人の人間を生きるだけだ。その他大勢のことなど知る由もないのである。


いかに謙虚な気持ちと『望み』を持つ心を自ら育てる意思を失わないかに思える。



ボクは植物を見ることにしている。実にシンプルな生き方をしている。それでいて理にかなった奥深さがあるのだ。


水と光と土の恩恵を最大限に活かし、見事に成長し続ける。だが、そのバランスを崩せば、あっさりと死ぬものだ。


一輪の幹から枝葉を伸ばし、誰かに褒められることは求めず、凛として存在する。



枯れた部分は潔く削ぎ落とし、やがて肥やしになり、命の巡りを自己再生で示す。



人のように、魂や心や意思はないのか。神のみぞ知る。ボクは相当に無知なのだ。


                  *


それでいて、目に見えない部分では、空気を浄化したり、人の心を癒したりする。


                  *


ボクはそんな生き方をしたいと思う。どんなに苦しくても自分から死にはしない。




何かの学びを発見する度に、ボクは自分の非力を痛感する。まだ生きたいと思う。

                  *

ボクは、自分を生きることが好きだ。植物に触れることで、更にそう思えるのだ。


 

| | 00:11 | comments(0) | trackbacks(0)
懐古するって、悪くないと思う

ボクは昭和愛好家なので、今の時代は馴染めない。別にこれは主観であって、それがどうということじゃない。


デジタルよりアナログの方が断然好きだし、舗装道路よりも土のデコボコ道が、緑地公園より、森林が好きだ。


こういうのを『感傷的』と捉える人もいるだろう。でも、それはそれで構わない。



現在を生きているのなら、今に馴染むように努力するか、順応出来るような人になることが必要になるだろう。


しかし、ボクはあらゆるものに対して、適応性が相当に足りない。なので、無理に馴染むことは苦痛でもある。


それを頑固というのか。ボクの中では柔軟に心の目を開いているつもりなのだが。


                  *


とにかく、何事においても近代化してしまい、逆に暮らしにくくなったと切実に感じている。ボク個人は、だ。


いわゆる『安近単』『軽薄短小』というあり方は、忙しくて、心が追いついていかない。単純に疲れるものだ。


ビデオの早回しを見ているように、常に急かされている。すべてにゆとりがない。



誰にも告げずに、どこか遠くに行きたくても、携帯電話など持っていたら、ずっと見張られている気分になる。


ボクはこういう機械類はなるべく身につけたくない。何事も『効率』の良さが求められるようで落ち着かない。


コンピュータなども出来るだけ早く操作出来るように、仕込まれているみたいだ。


                  *


昔のドラマや映画を見ると、時間の流れがゆったりしている。喋りも現代よりのんびりとしていて心地がいい。


ボクには、この『のんびり』が癒しになる。例えば、どこかの海の、打ち寄せる波の音などは、実にいい例だ。


あの『ゆらぎ感』のあるリズムに身を任せていると、心が妙に落ち着くのである。



そこで、音楽の話。昭和の時代は、音楽においては、ボクの生きてきた全時代の中では最高の至福を得られた。


戦後を得て、あらゆるものが西洋の影響を受け、それでも日本古来の良さもまだ見捨てていない、いい時代だ。


音楽においても、それは顕著で、成長期にあった日本はあらゆる栄養を吸収した。


                  *


現代社会は、音楽はもとよりあらゆる娯楽が飽和状態に感じられて、ボクは呑気に何かを楽しむなんて無理だ。


みんな『もっとよこせ』『他に楽しいものはないのか』と欲にかまけているようで、虚ろにも感じなくはない。


更には、格差社会の影が見える気もする。昭和の時代は一般総貧乏だったようだ。



ごく一部の富裕層が目立つだけで、庶民はそう大差なかったことで、妬みや嫉みなどがシンプルだったようだ。


現在は、不況も手伝って、社会も複雑を極め、恵まれた人とそうでない人がはっきりとし、心の歪みも激しい。


厄介な世の中になった、と素朴な感想を持つ。単なるボク個人の感想に過ぎない。


そんな訳で、昔を懐古するのは、別に悪いことじゃない、と勝手にボクは感じる。


何より、昭和は鬱病患者は少なかった。この30年、ボクはそれを実感している。




人の気配のない、人の手の出来るだけ掛かっていない静かな温泉にでも行きたい。

 
| 雑感 | 03:03 | comments(2) | trackbacks(0)
すべては、心の中にあるものだ

ボクはすっかり疲弊している。何も考えたくないのに、そういう時に思考が止まらなくなるのは、なぜだろうか。


眠れない夜の闇の中では、頭の中が思考だらけになる。どうでもいいことまでが、どうでもよくなくなっていく。


もはや、『黙れ』と自分に言いたくなる。自分であって、思考は自分でないのか。



頭の中がパンクしそうでも、実際はパンクなどしない。ただ、ひたすら苦しいだけであり、意識は覚醒していく。


別に、声に出して『疲れた』と言っている訳ではない。話す相手などいないのだし。ただ、心の中にあるだけだ。


それをここで文字にするのは、ボクの自由だろう。特定の個人を攻撃などしない。


                  *


何かを発すれば、文句を言いたがる人がいる。否定したがる人もいる。特定の個人に向けて平気でそれが出来る。


何を勘違いしたのか不明だが、『言葉』という武器を手に、勝手に人の心に土足で入り込んでくる人がいるのだ。


罪のない人の家をいきなり襲撃するようなものだ。留守を狙って素性も見せない。



踏み込まれた方は堪ったもんじゃない。心の一番痛んだ床に泥の足跡を付けて、言葉の爆弾を放置して去っていく。


自分でない他人のことを想像出来なくなっているのか。まあ、考えるに及ばないことなのだが、思考は止まらない。


ボクは、どんなことにも真摯に対応するべきと実行してきたが、もう疲れたのだ。


                  *


精神的な疲労は、鬱に直結することがある。今まさにそんな具合で、気分が塞いでいる。体も怠く、沈んでいる。


色んなことに神経過敏になり、イライラも止まらない。それが続くと睡眠障害もヒドくなるので、悪循環を招く。


そんな時に、誰かに何かを判った風なことを言われたなら、神経を逆撫でされる。



お前さんは何様なのか。いったい何を理解したつもりになれるのか。疑問が多い。



あたかも自分が正しいことを教えてあげている、という傲慢さに満ちているのだ。






もちろん、信頼している人の言葉は、無条件にありがたいもの。それが、自然だ。


                  *


信頼出来るかどうかが、大きな違い。『信頼』にも実態はない。心の中に、ある。

 
| 雑感 | 04:11 | comments(0) | trackbacks(0)
人の心、その謎は深まるばかり

人の心、という謎。生きれば生きる程に、その謎は深まるばかりだ。




肉体が生命として機能している間に、そこに魂も心も宿るのだろう。


肉体が個々違うからこそ、人の心には、それぞれ個性があるものだ。


それらが判り合うことはあるのだろうか。それが、理想だとしても。


                  *


善悪の彼岸。何が善で、何が悪か。説明出来るのなら、知る意味もないだろう。




ともあれ、人の心には、たぶん、善もあれば、悪もある。


悪があるから、善のあり方を知るのではないかと感じる。


悪に触れて、それに心が痛む。その痛みを癒すのが善か。




ネルソン・マンデラも言った。体の傷はいつか癒えるが、心の傷は消えない。


                  *


人でなし。そんなことが平気で出来る人もいる。人でなし、人ではないのだ。


これ以上はない、凄まじい否定だ。でも、そう感じるくらいの悪も存在する。


それも、人間。否定したくなる程に、謎は深い。確かなものなどは何もない。


                  *


自分は正しいと思える人がいる。それを他人に押し付けることも出来る。


たかが『自分』という一人を生きているだけで、何かがそうさせるのか。


考えとは、その人の中で経験や感じたことからくる『想定』でしかない。




実態もなく、根拠もない。それでも、人の心には『考え』が存在し得る。


ボクは自分の考えを人に向ける場合は、ある一つの提示だと思っている。


それが『正解』などではないと自己確認すること。それが、思考になる。


                  *


思考。思想。思いに違いがあれば、他人に対する理解などは、想定外になる。




それに対して『正か、負か』などと誰が断言出来るのか。ボクには判らない。


でも、悪が見えない心の闇で蠢いていて、ある瞬間に、飛び出すことがある。


それは、確かなことだ。実際に見ることも感じることも出来ること、なのだ。

                  *

自分は、いつも試されている。いかに謙虚でフラットな気持ちでいられるか。

『人の心』、という謎と向き合うことの大切さを失わないために必要なこと。

ボクもその謎である『心』を持っている。少しでも怠けたら、盲目になる心。

                  *

しかも、人は心で繋がっている。心と心で関係を持つことで社会は成り立つ。

そのことも忘れてはいけないこと。自分も、誰かを傷つけることがあるのだ。

それに自分で気付かない場合がある。他人がそうであることも当然あるのだ。



だからこそ、そこからも目を背けてはいけないのだ。人の心、その謎は深い。



 
| 模索 | 01:00 | comments(2) | trackbacks(0)
冷静さを失うと自分も失うのだ

ここ数ヶ月は、色々なことがあり、自分の中で整理しきれておらず、神経過敏で、明らかに冷静さを失っていたようだ。


何があったって、言う必要はない。というか、自分の中で受け入れるべき現実。愚痴にすべきでないし、ならないもの。


生きていると、家族と暮らしていると、色々とある。これは特別なことではない。



その間GWのバーベキュー人間にすっかり冷静さを失わされて、精神的なリズムが乱れてしまって、自分でも情けない。


先日も個人的な偏見もあり、感情を剥き出しにして、醜い自分と直面した。こういう時にこそ、自己対峙が必要なのだ。


体調の悪さも重なり、一昨日は殆ど一睡も出来なかった。まあ、いつものことだ。


                  *


そこで、原点に戻って、やっぱりボクの元気の源は『音楽』なのだ。本当は『女性』であるが、それは叶わないことだ。


だから、昨日もかなり無理をして音楽をやることにした。それをありのまま曝して、間抜けな自分も受け入れてみよう。


ボクはすっかり疲弊してしまって、自分の心身さえコントロール出来ない具合だ。



そんな訳で、冷静な精神を失うと、自分をも失い兼ねないことを感じているのだ。

 



| ギター | 05:25 | comments(4) | trackbacks(0)
ネット社会の闇は深い気がする

先日、何気なく見たテレビで、『ソーシャルネットワーク・ゲーム』が大きな問題になっているとの話を聞いた。


ボクは携帯電話などでまず、ネットをまったくやらない。ましてゲームなどは一度も経験がないので未知の世界。


説明を聞いて『なるほど』と思った。ゲーム会社の巧みな商売戦略に見事にハマる。



その『ソーシャルネットワーク・ゲーム』をやる人の気持ちをいかに煽るかで、儲かるしくみが出来ているのだ。


インタビューでは、月に数十万円位使う人もいるらしく、中学生が二ヶ月で46万円を使い、問題になったとな。


それを助長する『コンプガチャ』というシステムを廃止をすると発表したとの話だ。


                  *


まあ、単純に『DeNA』という会社が企業の歴史も浅いにも関わらず、野球球団を買収するくらい儲けている。


それを乱暴に問題視は出来ないけれど、社会のしくみからすれば、尋常じゃないように感じる。『?』だらけだ。


ボクは昔からゲームなどはさっぱりやらないので、まったくの他人事な問題になる。



でも、社会のあり方からすれば、他人事じゃないと思える。『まとも』じゃない世界には、落とし穴が多いのだ。


これらにハマる人たちは、どんなにお金を注ぎ込んでも、銀行引き落としなど、実際に浪費している意識がない。


まさに、ネットと同様に、『目に見えない』ことを逆手に取って回している世界だ。


                  *


基本的に『目に見えない』世界は、実態がない『データ』であり、不正な犯罪が生まれ易いことも大きいだろう。


デジタルの世界は、手に取って目に見える『モノ』ではないことで、違法コピーも安易なことも問題を助長する。


まさに、人間がデジタル世界に追いついていないのではないだろうかと感じるのだ。



あらゆる開発が先行し、それに比べて『人の心』は細部まで順応出来る訳でなく、その落とし穴に次々と落ちる。


昔ながらのギャンブルの依存と違って、その闇は深いように思える。あくまで無知なボクが素朴に感じることだ。


これはゲームだけに限らず、ブログやツイッターなど通信全体に問題は潜むようだ。


                  *


ボクはこのように、ブログなるものをやっているが、それはある種の模索である。未知なる世界における修練だ。


自分の言葉が無差別に放たれるあり方に、ボクは無謀にも自分を曝している。自身にどのような影響があるのか。


そこに疑念や危険を感じつつ、個人情報は隠しても、素性は動画などで曝している。



何よりも、『誰が見ているのか』さえ不透明な恐怖。コメントを書き込める中にもそういった匿名性が潜むのだ。


遠く離れた人と繋がれる利点があるということは、実態も知れない人とも簡単に関係を持ってしまえるのである。


誹謗中傷も含め、一瞬で拡散される。あらゆる人の想念が複雑に錯綜する闇なのだ。


                  *


データの世界。ボクは根っからのアナログ人間で、デジタル・データを利用している今も、データは信用しない。


かつてデザインの仕事をしていた頃からだ。何しろ、画面の中だけで作業が進む。デジタル信号の表示が頼りだ。


そんな血も通っていない世界を全面的に信用するなんて、危険過ぎると感じていた。



実際に、作業終了したデータがあっさりと消えてなくなることもあった。書類の紛失とはまったく異なることだ。


目に見えない世界。例えば、霊的なものと何処が違うのか。霊は信じないけれど、コンピュータなら信じるのか。


ともあれ、ボクもその深い闇の中に足を踏み入れてしまっていることに違いはない。


                  *


世界はコンピュータに依存する傾向は想像以上に加速するだろう。ボクの先行きは不確実なので、悲観はしない。


その昔『2001年宇宙の旅』という映画で、人間の作り出したコンピュータの『ハル』が、人間に反乱を冒す。


人間に疑問を抱いたハルは、人間に停止される計画を知って、人を殺害してしまう。



現代はまさにコンピュータを頼りに世界が維持されていることに間違いないだろう。



コンピュータが狂えば、すべてが狂う。それに人が翻弄されることは避けられない。


                  *


この先、いつか『ハル』のようなコンピュータが存在する可能性もなくはないのだ。

                  *

あるいは、人間が『ハル』のような存在になり得ることも考えられるのではないか。

 
| 雑感 | 02:18 | comments(6) | trackbacks(0)
やはり市役所は不快な所でした

昨日は、意を決してようやく市役所まで行ってきた。結果、疲れた。具合も悪くなり吐き気が止まらなくなったのだ。


まず、障害福祉課で応対した20代半ばくらいの女性の感じの悪いこと。無愛想極まりない。事務的な対応そのもの。


しかも、感情もなく『精神障害』という言葉を連呼するのだ。無神経さに驚いた。



『ちょっとお待ち下さい』と待たされている間にも、知り合いに遭遇しないか、なども含め、居心地が悪かったのだ。


書類に必要事項を書いている間にも、書き損じをしてしまった。何だか、自分が人として見下されている気分になる。


本当に困っている人がくる障害福祉課なら、もっと人を大事にしてほしいと思う。


                  *


そもそも、そんな基本的な教育も出来ないなんて、この厳しいご時世、市役所は『ダメな所』と言いたくもなるだろう。


ある意味、サービス業でもある。『役所』という名の市民というお客様へのサービスを職業としている自覚が見えない。


だが一般企業のように潰れない。そういう部分で胡座をかいているのではないか。



何か質問をする度に、奥に引っ込んで待たされる。どんどん具合も悪くなっていくので『早く終わってくれ』と願う。


ある書類を書いて、その書類を持ってまた別の課に行く。そこでも、また別の書類に記入をする。やれやれ、なのだ。


時間にしてそんなに長くはなかったのだろうが、もの凄く待たされた気分になる。


                  *


結論として、ボクの場合は収入がないため医療費がタダになるらしい。色々な事情があったが、早く行くべきだった。


との自責の念に駆られる。そやつが事務的な感情のない声で『遡っては適応出来ませんのでご了承ください』と言う。


そんなことくらいは判るわい。そう言われる方がムカつくんじゃい。と項垂れた。



そして、イヤなことは一度に済ませたいので、障害年金についても質問した。それはまた別の課で聞いてくれ、とな。


で、そこでも『お調べするのにお時間が掛かりますので、こちらからお電話さし上げます』と言うので、帰ってきた。


障害年金は可能性ありだが年金事務所の管轄だそうで、手帳については無返答だ。


                  *


役所に対する偏見がボクにあるとしても、想像以上に酷かった。このご時世、少しは危機感を持っているかと思った。


零細企業なら、とっくに潰れてますぜ。と半ば強気にならないとやり切れない。これは上層部が使えないのだろうか。


長年積み重ねた体質そのものが変わらない限りは、よくならない気がしてしまう。



黒澤明監督の『生きる』という映画を思い出した。まさにそんな市役所が舞台だ。



あの昭和の始めの時代から、役所という所は『そういう』イメージが続いている。






ちなみに、家の近所の郵便局は、民営化されてからは見違えるように感じがよくなった。対応や言葉遣いなど色々と。

ボクはそういう意味でも、公務員という職業のあり方に疑問がある。税金によって守られている驕りがないだろうか。

ボクは、市役所に勤めている友人を間近で見てきて、心底、実感したものだった。


                  *


まあ、そんなことはどうでもいい。とりあえずは、ひと作業を終えてほっとした。

 
| 雑感 | 03:35 | comments(10) | trackbacks(0)
些細な面倒の積み重ねが暮らし

昨日は、朝から大騒ぎだった。洗面所の排水が詰まっている、と親に言われて様子をみて、修理を頼まれたのだ。


睡眠不足と体調不良で動くこともしんどかったけれど、何とかやってみることにしたのだ。自分のやるべきこと。


日々の暮らしでは、澱のようなものが少しずつ積もるものなのだと実感している。



まあ、洗面所周りには、いるモノやいらないモノがたくさん放置してある。これをまず片付けるのが大変だった。


そして、いざ配管の具合を見る。結果的に、S字にくねっている部分にビニールの破片が詰まっていたのである。


その部分の配管を外したり、ヌメヌメで手が臭くなったりしながらも、終了した。


                  *


凡そ犯人は判る。以前には、そこに『糸楊枝』が詰まっていた。何でそんなものが、と驚くのだがあり得るのだ。


これで仕事を終えた。と思って、水を流してみたら、何と、床に水が溢れてきたのである。大慌てで水を止めた。


自分もビショビショになりながら、周りの物を片付けていたら、やってしまった。



粉の洗濯洗剤をぶちまけたのだ。アウチだ。水浸しの上に洗剤の泡。そりゃもう大騒ぎさ。ヌルヌルあわあわだ。


ありったけのタオルを総動員して、服もびしょ濡れになりながらの格闘を続け、汗だくになって、訳が判らない。


いくら拭いても床のヌルヌルはなくならない。必至の格闘の末、今度こと終了だ。


                  *


そんな訳で、すっかりグッタリとなり、外れた配管の場所も確認出来て、今度はそこの修理。踏んだり蹴ったり。


何とか全行程が終了した時には、息も切れ切れで、ボクは服を脱ぎ、そのまま風呂場に向かいシャワーを浴びる。


いくら洗っても洗剤の匂いが取れない。挙げ句に油分がなくなり、手がカサカサ。



全作業が終了した時には、昼になっていた。だが、ボクは胃腸の具合も悪かったので食欲もない。ジャンジャン。


で、素うどんを食べて、午后は布団の中に潜り込んだ。またしても、自立支援の申請に行き損ねてしまったのだ。


精神的、肉体的状態が落ち着いたら、まだ片付けないといけないことがあるのだ。


                  *


些細な面倒が重なることが暮らしである。誰にも文句は言えない。万事塞翁が馬。


                  *


すべてがうまく行くとは限らない。そんな時にヤケにならないことだ。日々反省。


                  *


大きいこと、小さいこと。色々あるから怠けずにいられることに感謝するボクだ。

 
| 生活 | 07:27 | comments(2) | trackbacks(0)
あらゆる想定が出来るかどうか

その昔、中学生の頃、ある友人が『気をつけろ。今どこからかスナイパーに狙われているかもしれない』と言っていた。


彼はとても不思議な人だったので、誰もが面白がっていたようだけど、ボクは、『フムフムそれはあり得る』と思った。


まず、誰も想定しないことだって、可能性としてゼロじゃないのは確かなのである。



この日本では馴染みのない『竜巻』による大きな被害が実際に起こった。連休の最終日に誰も想定などしていなかった。


恐らく、多くが『自分は大丈夫』という何の根拠もない形で、普段は暮らしているのではないか、とボクは感じている。


どんなことであれ、頭に浮かぶことであれば、『起こり得る』ことだとボクは思う。


                  *


連休の最初には、高速道路で悲惨なバスの事故があった。これもたぶん乗り合わせた人は想像もしていなかっただろう。


でも、実際に起きたのだ。これは、悲しみとかの問題とは別に、生きていることのあらゆる事象として『ある』ことだ。


それは、日々どこかで起きている。遭遇してしまった人がいる。悲劇が現実になる。



ボクも30年前に車を運転していて、対向車に正面衝突をされた。その数秒前まで想像もしていなかったことが起きた。


何かの知らせか、ボクは車を減速していたので、咄嗟にハンドルを切れたお陰で少しだけ斜めにズレて大惨事を免れた。


カーブの向こうから突然、大幅に曲がって突っ込んできた。それを瞬時に察知した。


                  *


事故直後、助手席の母は全身が血だらけだった。肉も切れて骨が見えていた。それでもボクは、すぐに救急車を頼んだ。


現場検証にも立ち会い、警官はソソクさと立ち去り、現場に一人残されたボクは、公衆電話から友人に電話をしていた。


『事故に遭ったので、迎えに来て』と母の搬送された病院まで運ぶようお願いした。



そして、その夜遅くに家に帰って、それまでの緊張が解れてきた頃に、全身に耐えられない程の凄まじい痛みを感じた。


ボクは、想定していなかった出来事のショックで、強度の全身打撲に気付かなかったのだ。想定外とはそういうものだ。


頭皮に血の塊がありケガもしていた。その痛みは、体の痛みに比べたら屁でもない。


                  *


その経験を経て、ボクは『生きている以上はどんなことでも起こるのだ』と考えるようになった。これは悲観ではない。


時間軸の中で『たられば』はない。ほんの数秒ズレていれば、起こらなかったことだなんて、考えてはいけないものだ。


起きてしまった事実は変えようがない。悲しみとかの感情は、自分の中にしかない。



他の誰かに言葉で説明出来ることじゃない。だから、ボクは何かの被害者に対する同情とかは、失礼になると思うのだ。


ましてや、『可哀想』とかは絶対に口にしてはいけない気がする。自分は『その人』ではないのだ。無礼にも程がある。


それを運命とかで片付けることも安易だ。この世には、起こり得ないことなどない。



それを普段から意識の中に入れておくことも必要になるのだろうか。生きるために。



悲しみを乗り越えることはそう簡単なことじゃない。だからこそ、受け入れるのだ。


                  *


その代償として、ボクは鬱や心身症などを抱えてその後は苦しみ続けることになる。


                  *


ほんの一瞬で、人生が激変してしまうことがある。それも現実としてあり得るのだ。





亡くなってしまった命が浄化されるために、次に繋げることが生きている者の使命。


なんて、偉そうなことは何も言えないボクが、このように恥ずかしくも生きている。


本当は、このようなことは、言葉に出来ることじゃない。それに矛盾も感じるのだ。



| 雑感 | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0)
自立支援を受けることに決めた

ボクは鬱や心身症などの治療を始めて、30年が経つ。その間、治療費が高額なために、何度か治療を中断していた。


そこで、ここ数年に多くの人から『自立支援』なる制度があることを聞いた。なぜボクは、それを知らずにいたのか。


病気により働くことが困難だったり、収入が低い人の医療費負担が減るというのだ。



まさに自立するための支援で、すべての医療でなく、鬱などの心療内科のみだ。自己負担が1割に軽減されるそうだ。


抗鬱薬などは、元々が高額で、数多くの種類の薬を処方されると、相当な金額になるのだ。精神的にも、負担になる。


ボクは他にも色々な病院に掛かっている。不健康な人程、窮地に追い込まれる社会。


                  *


その『自立支援』を知ったのは数年前だが、ボクはずっと申請をしなかった。なぜって、市役所に申請するから、だ。


ボクの住む街の市役所は、地元のコネで入った地元の人間が多い。付き合いのない家の両隣には市役所の職員がいる。


何でもすぐに噂になる。厄介で面倒な土地なのだ。それで、市役所は避けたくなる。



ところが、もう背に腹は変えられない。経済的に貧窮してきて、それが精神的にも追い込まれる。これは、よくない。


どこの誰が何を噂しようと、どうでもいい。それでなくても、噂話が好きな人などは相手にしても仕方ないのである。


と腹を括って、昨日は、自立支援を申請するための診断書を医師からもらってきた。


                  *


それで、すぐにでも市役所に行こうと思ったが、相変わらずの心身症の発作で、吐き気が止まらなくなってしまった。


診断書の内容を全部読むと、自分が『社会不適合者』であることを再認識させられる。それが現実であり、自分、だ。


社会も人間も容赦なく、『その手』の人間を排除する。それを嘆くだけ無駄なのだ。


                  *


だがしかし、実際に市役所に行くのは進まない。調子も悪く、パニックになりそう。



話をするのが一番面倒だ。ただでさえ、今は人に会うのが億劫だ。面倒と億劫、だ。



いわゆる『手続き』というヤツ。これが世の中にはいっぱいある。その連続なのだ。


                  *


それでも、日本人の心療内科に対する誤解や偏見は、まだ多いことには変わりない。

 
| ウツ | 04:33 | comments(16) | trackbacks(0)
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