WOW SPRING的ウツウツ生活

地球は今日も生きている。そこでぼくらは生きている。生命すべてが平等である。
地球がぼくらを育ててる。ぼくはその恵みに感謝する。心に笑顔と、ありがとう。
家族や社会や時代でなく、自分

世の中、便利さが加速して、娯楽なども多様化した。それがいいのか悪いのか。それはボクが語ることじゃない。


それでも、人のあり方や家族のあり方に変化を及ぼしたのは否めない気がする。細分化により、差も大きくなる。


ボクの子供の頃は、一般総貧乏みたいな時代だったけれど、現在より平和だった。



物はないし、娯楽も自分で創意工夫しないと楽しめない。あれが欲しい、これがやりたい以前に、発見が必要だ。


我慢もしたけれど、たまに金持ちを妬んだりもしたけれど、それでも今よりずっと心は豊かだったように感じる。


ある意味、物や環境が豊かになると、心は貧しくなるのではないか、とさえ思う。


                  *


ボク個人の見解であり、戯言かもしれないけれど、社会からドロップアウトしているからこそ見えることもある。


家族を持ち、仕事をして、休日には家族と何かをエンジョイするのは悪くない。それがライフスタイルってもの。


でも、現代社会にある落とし穴に気付かない人も多いように感じなくはないのだ。



人は『絆』とか体裁を掲げるけれど、自分が一番大事で、自己主張だけは立派で、他人がどうだろうと関係ない。


人がどう感じるかも知らない振り、衝突もなくすれ違いの人間関係は体裁になる。小さい世界に意識も埋没する。


複雑に選択肢も増え、欲を煽られ、大事なものさえ見失っている人もいるだろう。


                  *


例えば、ボクは今、主夫のようなことをしているが、平日にスーパーとかに買い物に行くことが多く色々感じる。


主婦たちの多くは、目先のことしか見えていなくて、連れている子供たちは我が儘で自分勝手に振る舞っている。


車を駐車する時。物を選ぶ時。レジに並ぶ時。些細な場面で、それらが露呈する。



親の教育以前に、自分が人としての未熟さに気付いていないのか。大人にもなれない親が子供を育てているのか。


なぜ、想像を越えた事件が起きるのか。なぜ、簡単に人を欺けるのか。それらは、些細なことから始まっている。


ボクは、世間的にかなりダメな人間に違いないが、そのボクが疑問を感じるのだ。


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残忍な虐待が増える一方、子供を叱れない大人も増えている。まず、叱ることと怒ることが別物だとも考えない。


叱るとは、その人のことを想い、注意を促すこと。怒るとは、自分の感情で押さえつけようとすること。だろう。


イラっとして、怒鳴ったり暴力を振るうことは、躾にはならないとボクは感じる。



その昔は、近所のオジさんにも怒鳴られたり、教師に叩かれたりしたが、現代ではそれはあり得ないことになる。


変人扱いや教育論にまで派生して、肝心なことが迷宮に入り込んでしまっている。もはや論ずるに値しないこと。


モンスター・ペアレンツなどは、エイリアンよりも不気味で不可解な存在なのだ。


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一番肝心な『愛』をどこかに忘れてきたような気がしないでもない。では『愛』とは何か、なんて各々の問題だ。


混迷を極める社会の中に埋没してしまった『愛』を探すのは至難だ。自分で探すしかない。誰も教えてくれない。


だから、自分を複眼的かつ俯瞰で眺められる勇気を持つことが必要になるだろう。



スマートフォンを眺めて、人の痛みが映っているのか。ネットで簡単に検索したら、そこにあるのは答えなのか。


或は、メールやつぶやきに心が見えるのか。ネットで何かを知ったことにしているのか。ボクには判らないこと。


ボクは人の顔と向き合いたい。動きや表情、目の輝き具合を見ることを望むのだ。


                  *


別にそれで何かが判る訳ではないが、自分の中で、『愛』を発見する手掛かりを探ることは出来るかもしれない。


自分の哀れを家族や社会のせいにしていては、何も生まれない。自分が自分でなくなるだろう。喪失感と虚無感。


自分でない他人と『何か』があった時にこそ、人には『自分』が現れる気がする。



そういうボクもすっかり人と接していないから、心が乾涸びている。そこに、いかに潤いを得るかは自分次第だ。


衝突があろうとも、すれ違いがあろうとも。人と向き合い、隣り合わせ、自分からも目を背けないようにしたい。


もう少し調子がよく心が整えば、ボクも人に逢い、話がしたい。と願うのである。


                  *


そんなことに色々と想いを巡らせていたら、とても相応しい人と唄を思い出した。



この魅力的なオジさんを見る若者の表情や目が現代を象徴している気がするのだ。



訳の判らない唄には狂ったように拳や首を振れるが、オヤジの一喝で目は虚ろだ。

 
| 雑感 | 01:00 | comments(2) | trackbacks(0)
何かが変。モヤモヤ、ザワザワ

先日から入れ歯を使っているのがストレスになっている。歯茎が痛いし不快だしで食事もぜんぜん美味しくない。


それも関連して、先週から続いている鬱状態に拍車を掛けている感じだ。夜も実に不愉快な悪夢か不眠かなのだ。


朝から心身の疲労感がヒドく、心の『モヤモヤ、ザワザワ』が止まらないのである。



連日寒いのも影響しているだろうか。冬期ウツにはならなかったけれど、少なからずの影響があるのは否めない。


最近は、『新型ウツ』などという怪しい症状が話題になっている。これは、基本的にボクらの鬱とは違うものだ。


仕事になると鬱状態になり、休日とかは趣味をエンジョイ出来るなんて鬱じゃない。


                  *


ボクは日常的なことは何とか出来ている。でも、脳内ホルモンは正常には機能していないようで、モヤモヤする。


何をやるにも、心も体も動かない感じだが、ボクは家事とかもやっている。それはある意味、慣れによるものだ。


自己再生でもある音楽もやれる。すると、周りからすれば、『元気じゃん』となる。



でも、元気じゃないのだ。何事もやった後には凄まじい疲労感があり、寝込む感じでもある。これではいけない。


次へのエネルギーが必要になるのだ。結局、無理を重ねていて、それがある日爆発してしまうこともあるようだ。


その危機感を抱きつつも、風船のように、ちょっとしたきっかけで、破裂しそうだ。


                  *


こうして、何かを書いていても、自分でよく判らない。何が言いたいのか判らない。


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またあの地獄のような鬱に陥りたくはない。鬱の怖さを知っているから余計に思う。 
| ウツ | 04:39 | comments(2) | trackbacks(0)
いったい不安はどこへ行くのか

年々、自殺する人の増加が止まらないようだ。そりゃそうだ。これだけ不景気で、不安しかなくて、先が見えない。


すべての人ではない。中には呑気に飲んで騒いでいられる人もいるかもしれない。でも、多くの人は不安を抱える。


ボク自身も、殆どが不安で出来ている。呑気な部分など針の穴くらししかない。



その針の穴ほどの呑気さに懸命に糸を通して、希望を失わないようにしているので、何とか生きていられる感じだ。


ボクが子供の頃のようなままだったら、死にたくて仕方なくなっていただろう。それくらいに、いい材料などない。


何かを考えたら不安しか見当たらず、それにより更に不安が深まる地獄が続く。


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将来の不安もあるし、今現在の不安もある。現実問題として、『金』は大きい。お金がないと、不安は大きくなる。


日常の生活においては、心身症の発作、急激な吐き気や下痢なども大きな不安の一つになる。常に怯え苦しむのだ。


不安や焦燥感などが鬱を悪化させることもあり、負の連鎖に陥らないことだ。



両親は年老いてきて、介護などの問題も他人事ではない。増してや、自分の老後などは考えに及ばないことになる。


後十年でも生きられたら御の字だ。年金も貰えないだろうし、自分が労働してお金を稼げるかもまったくの未知だ。


どちらにしても、家族を持っていないので、一人で生き抜くしかないだろう。


                  *


先日、政府が自殺対策のために掲げた『GKB47』なるキャッチ・フレーズに、疑問の声が上がっているらしい。


明らかに『AKB48』を意識していて、フザけた印象は拭えない。政府なんていつでもこんな具合なのだと思う。


『ゲートキーパーベイシック』の頭文字らしいが、その意味すら伝わらない。



真剣に考えているのかい。と感じるけれど、政治家たちを見ていれば、このようなことには、もはや驚かないのだ。


なので『自殺対策ってそんな軽いもんかい?』との疑問よりも、呆れる方が強い。そんな名は間違っても付けない。


いかに、世間や一般市民をバカにしているか、それが一目瞭然になるだろう。


                  *


消費税云々を語る前に、役に立たないで高収入な議員たちを減らせよ、とも思う。市役所など公務員も同じだろう。


ボクの住む街は、地域開発などで高額な税金を投入しているのに、駅前では店がどんどん潰れているような始末だ。


つい昨年も訳の判らない立派な市の施設を建てた。これがバカみたいなもの。



周りの景観から浮いていて、最悪なものだ。こんなものに税金を使うくらいなら、他にもっと活用することがある。


それが出来ない人材を減すことが先決で、税金搾取が最善策ではないように感じるのだ。市民感覚がないのだろう。


野党も与党の批判しか出来ないで、具体的な政策もないのでは困ったものだ。


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不安を拭うために、いつしか毒を吐くことになってしまうボクもアホなのだ。 
| 雑感 | 01:07 | comments(6) | trackbacks(0)
弱っている時こそ自己対峙する

最近の中では最大級の凄まじい悪夢にウナされて、しばらく動けなかったけれど、何とか更新だけはしようと思う。



ここ一週間くらいは、やや鬱状態が不安定で、気分も堕ち気味である。諸々のゴタゴタもあり、参っているようだ。


だが、そういう時に限って、ボクは自己対峙をしてしまう。ここ数日のブログが長く突き詰めた内容になっている。


これは、自分でもかなり参っている証拠であるとの自覚があり、始末に置けない。



昨日の朝、東京にも雪が積もっていて、ボクは更に堕ちた。ただでさえ不安の多い歯医者の日に限ってこれかいと。


それでも、ボクはいつもの下痢や吐き気にも動じずに、歯医者に行った。先延ばしにすれば、余計に辛くなるのだ。


おまけに、昨日は『入れ歯』が出来る日だ。ついに入れ歯を使用することになる。


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シャーベット状の雪が凍って滑る。駅に辿り着くだけでも大変だった。電車は普通に動いていたのが幸いであった。


だがしかし、歯医者に着いて、いざ入れ歯をハメて、諦観した。不快だ。これをずっと付けていなくてはいけない。


それ以前に、差し歯が6本ある。口の中は異物だらけだ。これは、自然じゃない。



まだ、年寄りではない年齢のボクが殆ど自前の歯もなく、差し歯やブリッジや入れ歯だらけの状態で、食事をする。


実際、美味しくない。噛み砕く作業も不愉快そのもの。しかも、口の中って、かなりのストレスを感じるのである。


心身症の発作が出ると、嘔吐反応もあるので、すぐにも外してしまいたいものだ。


                  *


なんて嘆いても始まらない。なったものは仕方ない。人間、食事は大切だ。きちんと噛み砕かないと消化にも悪い。


そこで、『足が不自由だとか、義手の人もいたりして、お前なんかぜんぜんマシだろう』との声が聞こえてきそう。


だが、そういうものは比べるものじゃない。誰が誰より不幸かなんて差別だろう。


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ともあれ、今はまだ何かを語る気力もない。『なんくるないさ』で行くしかない。

| 試練 | 05:17 | comments(2) | trackbacks(0)
人柄って、大切にしたいと思う

先日、バイト先で出逢った鬱仲間の人久しぶりにメールをした。何度か誘いを断っていたのが気になっていた。


彼は、時々ボクに会って話がしたいと言う。でも、ボクも調子の悪い時には話をする状態ではないので断るのだ。


何度続けて断っても、彼は少しも不機嫌にはならず、逆にボクを気遣ってくれる。



彼は、何かの事情があってか、数年前に家族で広島から東京にやってきた。ボクの住む街で、親子4人で暮らす。


歳はボクより3つ下だが、風格は彼の方がある。体格がいいのだが、見た目も内面も実に穏やかで、暖かい人だ。


鬱を抱えているようには見えない感じで、いつも笑顔でいる。人柄がとてもいい。


                  *


一緒に働いていたバイト先は、劣悪な所だ。そこで、ボクは鬱が悪化した。でも、彼は家族のため仕事を続ける。


本当は、もうかなり参っていて、すぐにでもヤメたいと思っている。でも、受験を控えた子供が二人もいるのだ。


奥さんの協力もあり、贅沢とは無縁な最低限の暮らしの中で、必至に生きている。



ボクは病院でも知り合いなど一人もいないし、いわゆる鬱の仲間は身近には彼しかいないので、話を共有し合う。


似ている部分もあるし、違う部分もある。同じ鬱でも人それぞれなのだ。苦しみも判り合うより、認め合うこと。


それでお互い心遣いや思いやりを持ち寄る。自分がどんなに調子が悪くても、だ。


                  *


彼が自分から話さない限り、ボクは詮索などしないので、なぜ広島から身寄りもない東京に来たのかは知らない。


どのような苦労があったかも聞かないけれど、彼を見るだけで、一緒に空間を共有するだけで、充分伝わるのだ。


人を比べるのは無粋だが、出逢ってきた人の中で、こんな人柄のいい人はいない。



逆に言うと、人柄の良さ故に、鬱になったとも感じる。それは彼の仕事振りや人に対する態度で感じられるのだ。


ローマではないけれど、『人柄』というものは、一日にしてならずだ。それまでの生き方が反映されるのだろう。


心根の問題だろうか。持って生まれた性格と違う。ともあれ、ボクは彼が好きだ。


                  *


ただ、彼は無趣味のようで、共通する話題が少なくて、話は暮らしや病気に及ぶだけになるのは否めないだろう。


それでも、話が途切れることはない。淡々と時間にゆとりを持ち、沈黙があっても気にならない。それが会話だ。


友人とはまた違う感覚で、年に会うのは2、3回だけだ。お互いに、鬱なのだし。



ありがたいことに、彼もボクを気に入ってくれている。ボクと話をするのが好きだと言う。大切にしたいと言う。


ボクは、性格よりも人柄というものを重視しているので、彼に似ている部分がなくはない気がして、相性がいい。


人は、同じ空間を共有する際に、違和感が強いとストレスを感じるものでもある。


                  *


自分がどんな状態にせよ、『心遣い、思いやり』をお座なりにしないよう日頃の心掛けだと自分に言い聞かせる。


時には、自分を殺して、心を能動的に前に進めないといけない時もある。まず、日々の修練が必要になるだろう。


言葉も大事に扱うように、心の中で吟味している。それでも至らない部分はある。



最初に人は皆それぞれに違うことが前提にあるので、理解するのではなく、認識することの必要性を感じている。


相手がどのようなことを感じているか、考えているか。勝手に解釈する前に、その人のあり方を認識することだ。


否定しないこと。他者を否定することは、自己肯定ではなく、自己否定にもなる。


                  *


そのようなことが、彼とは暗黙に通じ合っているから、余計な説明などいらない。


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『いい人』って好きな表現でないけれど、人柄の良さはそれとはまた違うものだ。



人柄とは、その人が、生きる上で心に重ねた『色』とか『柄』なのだろうと思う。



ともあれ、ボクはいい年齢になってきて、『人柄』の大切さを痛感しているのだ。

| 生活 | 00:11 | comments(6) | trackbacks(0)
負のオーラは感染するから怖い

つい数年前、友人に『ネガティブな人間と関わっていると、お前まで移るぞ』と言われ、いつしか連絡は途絶えた。


つまり、ボクは『ネガティブ』な要素であり、彼はそれを遠ざけたのか。真実は判らないので、断言など出来ない。


でも、少なくともボク自身も、それが正解ではないが、間違いではないとは思う。



マイナスのオーラを出している人と一緒にいると、まるでウィルスのように感染することをボクも感じているのだ。


父は、常にマイナスのオーラを出し撒くっている。こちらの調子が悪い時には、諸にそれに感染しヤラレてしまう。


自分に抵抗力がある時には、それをはね除け『ああ、まただよ』と客観視出来る。


                  *


ただ、強力なウィルスのように、一度感染してしまうと、かなりの重症になってしまうこともあるので、怖いのだ。


自分でも気付かないくらいの『負』の状態に陥ってしまう。鬱というのは、これに連動している気がしなくはない。


比較的元気な時に『自分がなぜ堕ちるか』を分析把握することも悪くはないのだ。



殆どの場合は、原因があるだろう。天候の変化や人間関係などの環境にも影響を受けるが、原因は自分の中にある。


自分が心の襞に染み込んだ澱のようなものを大切に保管しているのだ。心の整理がうまく出来ていないからなのか。


表現として使えば、やはりネガティブな力が作用していることは否めないだろう。


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ネガティブとかポジティブという『括り』は、個人的には好きではない。その線引きはどこにあるのか曖昧なのだ。


人によって違うものは、凡そが曖昧な表現でしかない。このような言葉を日常的に使える人を信用するのは難しい。


だから、ボクも極力使わないようにしているが、表現として必要な時もあるのだ。



ネガティブという括りは、考え方などがマイナス思考で、悪い方へと流れることだろうか。ポジティブはその対極。


ボクもかつては、かなりナイナス思考が強く、ほんの些細な菌を強大なウィルスに自ら増幅させていたようなのだ。


ただ、ボクの場合はいつしか心にプラスの種が芽を出し、のほほんが増え始めた。


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人だけでなく、空気も重要だ。空気というものは目には見えないからこそ、自分で気付かず心の奥で感じてしまう。


よく風水などでも言うことは参考にはなる。汚れた部屋にずっといると、気の流れが淀んでいるせいで、心も淀む。


煩雑とした都心に出掛けると、そこに充満した不穏な空気に疲労を感じるものだ。



例えば、満員電車の中。例えば、如何わしい店の並んだ街角。あらゆる人の想念が渦巻いていて、殺気さえ感じる。


未然に自分を防御するようなこともある。それは、自分の状態のいい時には出来ても悪い時には自ら吸い込まれる。


すべては自分次第なのだとも言える。自分を守るのは、自分しかいないのだろう。


                  *


ボクは本能的に、出来るだけ人の手の掛かっていない自然に触れると落ち着く。残念だが、そのような場所はない。


そこで、長い間生きている樹などは、自然に近い。ボクは時々、そのような樹に抱きついたり、そばにいたりする。


すると、自分の中からマイナスの要素が抜け出て行くのを感じることがあるのだ。



そういう心の浄化作用もあり、ボクは植物を愛しているので、部屋でも長い年月にたくさんの植物と共存している。


それらをボクが育てているようで、実はボクが育てさせてもらっているのだろう。植物といると、そう感じるのだ。


それら植物たちは、ボクの心を見せてくれている気さえする。ありがたいことだ。


 
| 雑感 | 01:21 | comments(2) | trackbacks(0)
心の贅肉も削ぎ落としてみたい

今のボクは、贅肉がブヨブヨしたダラしない体をしている。当然だ。動かないで、筋肉も衰えてしまっているのだ。


そこで、実は心にも余分な贅肉がついているのを知らない振りしている。目に見えないことをいいことに、なのだ。


ボクは基本的に怠惰なヤツで、怠けさせたら、どこまでもいい加減に過ごせる。



40数年ずっと痩せて引き締まった体をしていたから、今は重力に逆らえなくなった余計な肉を身につけたと思う。


それを心にもずっと覚えがあったのだ。心もスマートでありたい。『スマート』は頭が切れるという意味も含めて。


心も風通しのいい、軽やかな状態でありたいと思う。でも、今は出来ていない。


                  *


文学の世界では、『ミニマリズム』というのがある。ヘミングウェイ。ボクの好きなレイモンド・カーヴァーとか。


余計な感情表現を抑えた淡々とした文体で、『無駄を省いた』ともされている。これが、心に必要な気がするのだ。


ボクの心には、無駄が多い。余計な思考が錯綜して、自分でも混乱してしまう。



そこで、今回の音楽だ。ボクはギターを弾くと、嬉しくて勝手に指が動いてしまうので、音数も多くなってしまう。


いかに、無駄な音を省いて、唄うことが大切か。でも、一旦ギターを握ると、ボクの心は熱く躍動して止まらない。


それと対極に、ピアノは下手な分、音数も極めて少ないので、緊張感も高まる。


                  *


今回は、饒舌なギターと寡黙なピアノの対比で、ボクの心を表現してみたのだ。


ファースト・イスピレーションが新鮮なので、毎回、本番一発やり直しナシだ。


それをずっとやっている内に、自分の中で、音が宇宙を目指している気がする。

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自分が存在しなければこの曲も生まれなかったと思うと、宇宙の一部に感じる。

 
| ギター | 00:22 | comments(6) | trackbacks(0)
本人の中だけなら、いいと思う

人が、それぞれに違う考え方など、『観念』や『概念』を人に押し付けることは、何か違うような気がしてならない。


本人が自分で満足しているのなら、別段それは構わないことだが、それを他人に矛先を向けるのは、勘弁してほしい。


『一般論』『精神論』は、すべての人に当てはまる訳ではないので、正解でない。



にも関わらず、『これが正解だ』とばかりに、人にそれを断言するように押し付けるのは、大きなお世話に過ぎない。


ボク自身も、何度も、幾つもそういうことを言われたりしたし、他人が言われているのを客観的に触れることもある。


その度に、もう項垂れてしまう。『それは、何の目的があるの』と疑問に感じる。


                  *


経験も違えば、感じ方も違う。そんな人間が観念を共感し合える方が稀だ。何より相手を尊重していてこそ、自然だ。


ところが、さも何かを悟ったように、人を諭すことを平気で出来る人がいる。社会においても、友人関係においても。


ボクは以前、色々な人にその手のことを言われた。鬱なども関係してなくはない。



鬱の苦しみも経験していないのに、テレビとかの情報で物を言う。何の根拠もない話を自分勝手に解釈しているのだ。


宗教の勧誘と変わりない。その人の理論が、すべての人に当てはまる訳ではないのが前提であり、押しつけにもなる。


娯楽においても、持論のようなものをテーブルに乗せる人がいる。もう、論外だ。


                  *


でも、実際は、人間関係などそういうことの繰り返しだ。皆それぞれに考え方や物の解釈が違うから、軋轢も生じる。


そこで、どうやってうまく折り合いを付けてやっていくか。中には、軽く受け流してしまえる人もいたりするだろう。


だが、凡そは、それらの積み重ねがストレスにもなったりするのが、現実なのだ。



よく、ネットなどを閲覧すると、レヴューなどで、映画や音楽などを批判している人達を見掛ける。これは凄まじい。


さも自分は何かを知ったかのように、いかにその作品が『クズ』かを、勝手な解釈で批判して、貶してしまえるのだ。


これに触れる度にボクは不快になる。故意に批判するのは悪意でもあるようだ。


                  *


それらは表裏一体で、裏を返せば、人はいかに自分を認めてほしいと思っているかにも感じる。貧しさ故の欲なのか。


ボクもかつては、会社において、仕事で認めてほしいといつでも苛立っていた。それは自己中心的な考えに過ぎない。


複眼的に物事を捉えることが出来なくなっている。その中にいると、気付かない。



ボクは、愚かだ。それを確認することは苦痛である。しかし、そこを始点にしないと前に進めないこともあるだろう。


このブログで書いていることは、殆どが自己確認だ。思考を言葉に置き換えることで少しは自分を客観視出来るのだ。


それに対して、他人が何かを提示してくれたりすると、違う角度からも見られる。



だから、明らかな『悪意』がなければ、人の言葉は、ありがたいものだと感じる。



今よりもっと愚かだった頃には、人の意見などは否定的にしか捉えられなかった。


                  *


ただし、断定的な『これが正論』のような物言いは、その人が自分の中だけにしてほしい。肥やしにもならないフン。


鼻を摘んで、捨てるしかないのだ。新鮮な糞は肥やしになるが、乾涸びた古い糞はただのゴミでしかないように思う。


自分の調子が悪い時には、その臭さに諸にヤラレてしまう。まだ試練が足りない。



その弱さを確認するためには、必要悪とも捉えられる。何事も見る角度で変わる。



それでも、まだボクは未熟な部分が多いので、そこを突かれると、傷を負うのだ。


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となると、ボクも自分の身を守るために、心の扉を一旦閉めてしまうこともある。

| 模索 | 01:10 | comments(2) | trackbacks(0)
気付けば、随分と恋をしてない

ボクは自他共に認める変態だ。まあ、変態にも色々あるが、ボクの場合は、明るいスケベであり、害はないと思う。


この世に女性がいなかったら、どれだけツマラナイだろう。あるいは、生きる意味も見出せないかもしれないのだ。


自分が女だったら、逆の話で、どちらにしても、男と女。違うから素敵なのだ。



かつては、いつでも『恋』をしていた。もちろん片想いだ。胸がキュンとなり、寝ても覚めてもその人が気になる。


呼吸の『スーハー』が『ハースー』になってしまう。その人の仕草ひとつで、心が左右に揺らされてドキドキする。


万が一、笑顔でも向けられようものなら、その一日が幸せで満ち足りてしまう。


                  *


そこで、だ。もう随分とそんな恋をしていない。心のトキメキも感じていない。これはいかがなものか愕然とする。


恋に年齢は関係ない。先日、『家政婦のミタ』で有名な7歳の子役が競演した父役の人に恋していると言っていた。


ボクは、いい年齢になるが、子供でもオカシくない年齢の子に恋したりもする。



昨日、何気なくテレビを見ていて、AKBの篠田麻里子の笑顔に恋してしまった。そういう恋だってアリだと思う。


実際に、ボクはもう何年も『綾瀬はるか』ちゃんに恋している。彼女を見るだけで心がほっこりして笑顔になれる。


現実の世界で女性と接触がないのなら、妄想の恋だって、していた方が幸せだ。


                  *


若い子には若い子なりの、年齢を重ねた人にはその人なりの魅力がある。理屈で恋など語れないから、素敵なのだ。


心が揺れたなら、恋の始まりだ。胸が熱くなったら、恋の虜だ。一日がその人中心に回ったなら、恋の盲目になる。


傷つくことも、恋なのだ。どんなに惨めな振られ方をしても、嫌いにならない。



ボクは、今までに好きになった女性は皆、好きなままだ。どんなにイヤな想いをしたとしても、時が熟するものだ。


記憶からすべてを消去してしまいたい恋でも、時が経てば、心が優しくなれる。それが恋だろう、とボクは感じる。


実際、ボクを浮気相手にしていた女性には本気だったから、傷も深かったのだ。


                  *


ところが、自分の中で、その人に出逢えたことに感謝する気持ちがすべてを凌駕してしまう。恋は終わっていない。


携帯のメモリーもすべて消去したけれど、心のメモリーは健在だ。昨年、その人の絵を描いて、それを飾っている。


それは未練じゃない。楽しみなのだ。人生、楽しみをたくさん発見することだ。


                  *


そんな訳で、ボクは現実の恋に飢えている。新しい出逢いと発見があればいい。



ボクなりに相当参っているが、知恵と工夫で、元気の素を探していたりもする。



ただ現実を嘆いても、その嘆きは床に落ちるだけ。ならば、塵は掃いてしまう。


                  *


余談だけれど、最近の若者は、恋をするのが面倒だそうな。休日も、家で何もしないかネットを見て過ごすらしい。


若い頃にしか出来ない恋もある。『命短し、恋せよ乙女』だと思う。ボクなどは恋人欲しくても出来なかったのだ。


まあ、『老婆心』と言うのか、余計なお世話になるのだろう。でも、恋はいい。


                  



この篠田麻里子ちゃんの笑顔にはヤラレた。女性の柔らかさって、素晴らしい。







最近CMでよく観る『きゃりーぱみゅぱみゅ』にも、心を解してもらっている。


 
| 女性 | 04:28 | comments(6) | trackbacks(0)
筋肉痛は、気持ちがいいものだ

ボクはずっと痩せていて、つい数年前まで腹筋が割れていた。元々筋肉質なので、特別に鍛えなくても筋肉があった。


ところが、ここ数年は、特にお腹周りに脂肪がついてブヨブヨになっている。ジーンズもほとんどが履けなくなった。


内心『これはイカン』と思いつつ、何もしないでいた。適当に腹筋をする程度だ。



そこで、一念発起。かつて鍛えるために買ったダンベルを出してきて、少しずつでいいから、体を鍛えることにした。


実際に、体力の衰えも激しいので、鬱状態の安定している時に、無理なく体を動かしてみようと心に決めたのである。


そんな訳で、三日前から始めている。で、早速、筋肉痛。これが気持ちいいのだ。


                  *


本格的な筋肉痛なんて、いつ以来かも覚えてない。『年取ると二日後くらいに出る』なんて言うが、それは気のせい。


ボクは翌日にはしっかりと痛みが出た。『おいおい、筋肉も生きていたんだな』と実感して、続けられそうな感じだ。


三日坊主にならないようにしたい。すぐにヤメるようでは怠惰ないつもの自分だ。



更には、ホームセンターで以前980円で買った器具もおおいに役だっている。ローラー式の簡単なものだがスゴい。


これをやると、腕から腹筋、驚くことにケツ筋まで鍛えられる。お尻が筋肉痛になるなんて、いかに鈍っていたかだ。


ボクは鬱歴が長いので、多少の鬱なら動ける。その動ける内にやれることをやる。



無理なく、自分の中の生命を感じることが出来たら、鬱の改善にもなり得るのだ。



そんな訳で、ボクの中の心身宇宙が軌道を周り始めてくれた。ほんの少しだけど。


                  *


これが、世話になる2キロ〜15キロまで使えるダンベルと、ローラー式器具だ。

 


さて、何日続くか。それはボクには判らない。先のことなど誰にも判らないのだ。


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