15 過去
あたしはまだ朝早い時間に起きてユージに電話した。どこか近くの日帰り温泉に連れて行ってと。ユージはまだ眠りの中で『どうしたんだ、急に』とちゃんと聞いてくれなかったけれど、結局、車を出してくれた。普段は仕事の機材などを運ぶ時に利用するくらいで、休日とかにユージはあまり車に乗らない。
それでもあたしの部屋のそばまで迎えに来てくれて、『俺に任せろ』と言わんばかりの自慢げな顔をして、何も言わずに車を走らせた。
『せっかくの休みなのに、ごめんね』
あたしは、謙虚にそう言ってみた。
『なんだ、らしくないな』
やっぱりユージにはお見通しなのだ。あたしが少し落ち込んでいる時には、ほんの微かな態度の違いにも気付いてくれる。
『ユキが温泉に行きたいなんて、嬉しいよ』
『何かね、急に行きたくなったの』
あたしは、ここ数日の仕事における失敗などで気分が塞いでいたけれど、昨晩を有意義に過ごしたお陰で、少し前向きになっていた。今日はユージに逢いたいと感じたことが嬉しかったのだ。
東京近郊にも最近はたくさんの温泉施設がある。旅館や民宿でも日帰り温泉をさせてくれる所も多い。ユージはきっとネットか何かで調べてきてくれたのだろう。行き先も教えてくれないので、あたしも何も聞かずに黙って助手席に座っていた。こうした密室感のある中で隣同士で感じる空気には、特別なものがある。あたしはそれを楽しむために、音楽のヴォリュームを低くした。
話題を探して、何か会話をしていないと気まずい感覚はない。ユージは見た目は若いけれど、落ち着いた年齢になっている。それが横顔や背中などの存在から醸し出されるので、特別に沈黙が重たくならないように、そこにいてくれる。
何でこんないい人が今まで一人だったんだろう。すでに結婚して、子供が二人くらいいてもおかしくない。いつか自分で言っていたけれど、自分一人の時間も必要だから結婚に向かいなんてことはないと想う。そこまで客観的な考えだけで結婚をしないだろうか。きっと何か理由があるに違いないと想う。
少し渋滞にもはまったけれど、休日にしてはスムースに車は流れていた。高速を降りてからは小さな山並みの中を縫うようにして国道を走った。ユージの運転は丁寧で快適だったから、あたしは少し眠ってしまった。
気付いたら目的の場所に着いていた。宿泊施設もある、日帰り温泉。休日ということもあって、人で賑わっていたけれど、お風呂は空いていた。あたしは、のんびりした気分で露天風呂で空を仰いだ。澄んだ青空にトンビのような鳥が円を描いて飛ぶ様子にすばらく見とれて、気持ちのいい汗を流した。
その施設内で簡単に食事を済ませて、あたしたちはまた車に乗って、当てもなくほんのり紅葉し始めた山の中を走った。
あたしは、素朴に疑問に想っていたことを口にしてみた。
『ユージが結婚しない理由は前に聞いたけれど、でも結婚しようと想ったことはないの?そういう年齢を過ぎているでしょ』
ハンドルを握りながら、ユージが含み笑いをした。
『お前さん、またその話を蒸し返すのかい』
『この前は、なぜ結婚しないかの話でしょ。今度は、今までに結婚しようと想ったことはないのかを聞いているの』
あたしは少し意地になって、語気を強めた。もしかしたら、ユージの過去について知りたいのかもしれない。40前後の年齢になって結婚の匂いがしないのは不思議に感じるのだ。元々謎の多い人だけれど、仕事以外のプライベートな過去についてはあまり語らない。だから余計に知りたくなる。
『そりゃ、あるよ』
しばらくしてから、あっさりとそう答えた。
『昔話を聞きたいのか』
『うん、聞きたい』
『そうか』
そう言うと、ユージはにんまり笑った。その笑いの意味が判らない。あたしは少し馬鹿にされたような気がした。
『俺だって、恋愛の一つや二つはしてきたよ。よくある話だ。別に面白くもないけれど、それでも聞きたいか』
『聞きたい。教えて』
あたしは少し意地になって、ユージの左肩を揺すった。
『ねえ、教えて』
『判ったから、揺するな』
あたしは、笑顔でユージの横顔を見た。真っすぐ前を見ながら車を走らせるその顔に見とれてしまう。特別なイケメンじゃないけれど、すんなりと整った顔立ち。そこに深みが増して魅力となっている。
『幾つくらいかな。忘れたけれど、俺は真摯にある人を愛していた』
真摯に愛していたなんてよく言えると想いながら、続きを待った。
『人を愛することを教えてくれた人だ』
そこでしばらく間を置いてから、
『別にセックスで、どこをどうすると気持ちよくなるとかのテクニックを伝授された訳じゃない』と真面目に言った。
『ふざけないで、ちゃんと話して』
ヘラヘラと笑うユージ。真剣に聞いているあたしは、半信半疑になってきた。
『ふざけてないよ。ちょっと前置きをしておいただけだ。これも話の中では大事な部分になってくるからね』
あたしは話の続きを待った。
『その人はコピーライターを仕事にしていた。俺はカメラマン。直接仕事をすることはなかったけれど、間接的には何度も仕事をしていて、その頃はまだあまり意識はしていなかったけれど、ある仕事で深く関わることになってね。それで色々と話をしている内に好きになった。歳は一回りくらい下だった。まだ駆け出しの子』
ユージの言葉を一つも逃さないように、あたしは音楽の音を消した。
『彼女とはね、仕事でもプライベートでもよく衝突した。勝ち気と言うか、自分の主張の強い人で、物をはっきり言うんだ。でも、そこが好きでね。徹底的に話をするから、最後には気持ちが融合する感じになるんだ』
『融合』
『そう、融合。それはセックスでも同じ。俺たちはたくさんした。その度に得も言われぬ融合する感覚がある。愛しく感じる。この人のために何かしてあげたいと想えるようになる。自分が幸せになることは、この人が幸せを感じてくれることだと想えた。見返りを求めない、捧げる愛。それを惜しみなく自分の中に生むこと。それが愛することだと体を重ねるたびに深く感じた』
あたしは、突然、嫉妬心を抱いた。あたしの知らないその人に。
『この人となら、結婚したいと想った。一緒にいたいと。でもね、結局は別れることになっていたんだろうな。そういう役目だったんだ、彼女は。俺に愛を示してくれる人。愛を教えてくれる人。その役目を終えたら、関係も終わる。俺たちは、またそれぞれの道を歩くことに戻ったんだ』
『よく判らない。なんで別れなくちゃいけないのか』
『俺にも判らなかったよ。その時は。苦しかった。でもね、今はなんとなくそれが必然的な巡り逢わせだったように想える』
『必然的な巡り逢わせ?』
『まあ、暫定的に言葉を選ぶとしたらね。理屈じゃ、説明出来ないことがあるんだよ。その後は、一度も彼女に逢っていない。でも、心のどこかで幸せでいてくれると願っているし、そうあってくれていると信じている』
あたしは、まだ子供だ。この人に比べたら、まだ歩き出したばかりの子供であって、歩みも頼りない。何に躓くか判らない。どんな怪我をするかも判らない。
『ユキ、嫉妬しているのか?』
『いや、別に。嫉妬のしようもないじゃない。そんな素敵な人に』
『ユキが風俗のバイトをするって言った時あったろう?その時に何も言わなかったのは、ある意味、愛だ。俺はユキのすべてを認めたい。受け入れてあげたい。だから自分で選んだことをしてみて、それが正しいとか間違った選択とかじゃなくて、自分の中に何かを感じることになるのだろうか。そうあってほしいことを願った。それは我慢するとか自分を抑制することじゃなくて、愛に委ねること。愛しているなら、ユキが存在することに肯定的でありたいと想う。だから、ユキが自分の選択を実行に移して、それを経験して以後のユキに逢いたいと想った』
そんな深い気持ちがあるのは知らなかった。ただ寛容なのだとか、ある種の排他的な考えだとか、漠然と捉えていた。自分の中で問題にしていなかった。
『ユキはちょっと素敵になったよ。予想通り。やっぱり俺はユキを愛していると感じて嬉しくなった』
不意にあたしは、その言葉をダイレクトに受けて、涙が出そうになった。
『誰にだって、過去はある。過去を経ての今なんだから。過去を含めての今を愛することが大切なんだと俺は想う。過去を受け入れるとか、自分を試すとかの問題じゃなくて、もっと純粋にその人の今を、ただ愛せばいいんだとね』
あたしは言葉を失って、自分の未熟さが恥ずかしくなった。
『何か感想を言えよ。ご希望通りに話してあげたんだ』
『何も言えないよ』
精一杯の言葉を口にしたら、あたしは理由も判らずに泣きそうになった。
『一人で語って、決まり悪いじゃないか』
ユージのそのセリフが妙に心地よく響いて、泣くのを我慢した。それが正しいのか素直に泣けばいいのか、どうでもよかった。ただあたしは、簡単に泣いてしまうのを躊躇した。それでも泣かないように唇の震えを堪えているのをユージに気付かれないようにして、
『素敵な話だよ。ありがとう』
とだけ言った。
少しだけ潤んでぼやけた視線を窓の外に向けた。その言葉が素っ気なかったかな、と少しだけ心配になったけれど、しばらくは、景色を眺めることにした。
16へつづく
なんて、妄想フィックション14のつづきです。過去って、時々厄介な感じがする。忘れたい過去もあれば、やり直したい過去もある。過去に戻りたかったり、過去を消したかったり、色々だ。例えば、好きになった人の過去についてどう捉えるか。その人の過去を知りたいか。過去を全部受け入れられるか。これも色々あります。ともあれ、人には過去があって当然であり、過去があるから、今がある。過去を否定することは、今を否定することに繋がるような気もするのだ。