世の中、便利さが加速して、娯楽なども多様化した。それがいいのか悪いのか。それはボクが語ることじゃない。
それでも、人のあり方や家族のあり方に変化を及ぼしたのは否めない気がする。細分化により、差も大きくなる。
ボクの子供の頃は、一般総貧乏みたいな時代だったけれど、現在より平和だった。
物はないし、娯楽も自分で創意工夫しないと楽しめない。あれが欲しい、これがやりたい以前に、発見が必要だ。
我慢もしたけれど、たまに金持ちを妬んだりもしたけれど、それでも今よりずっと心は豊かだったように感じる。
ある意味、物や環境が豊かになると、心は貧しくなるのではないか、とさえ思う。
*
ボク個人の見解であり、戯言かもしれないけれど、社会からドロップアウトしているからこそ見えることもある。
家族を持ち、仕事をして、休日には家族と何かをエンジョイするのは悪くない。それがライフスタイルってもの。
でも、現代社会にある落とし穴に気付かない人も多いように感じなくはないのだ。
人は『絆』とか体裁を掲げるけれど、自分が一番大事で、自己主張だけは立派で、他人がどうだろうと関係ない。
人がどう感じるかも知らない振り、衝突もなくすれ違いの人間関係は体裁になる。小さい世界に意識も埋没する。
複雑に選択肢も増え、欲を煽られ、大事なものさえ見失っている人もいるだろう。
*
例えば、ボクは今、主夫のようなことをしているが、平日にスーパーとかに買い物に行くことが多く色々感じる。
主婦たちの多くは、目先のことしか見えていなくて、連れている子供たちは我が儘で自分勝手に振る舞っている。
車を駐車する時。物を選ぶ時。レジに並ぶ時。些細な場面で、それらが露呈する。
親の教育以前に、自分が人としての未熟さに気付いていないのか。大人にもなれない親が子供を育てているのか。
なぜ、想像を越えた事件が起きるのか。なぜ、簡単に人を欺けるのか。それらは、些細なことから始まっている。
ボクは、世間的にかなりダメな人間に違いないが、そのボクが疑問を感じるのだ。
*
残忍な虐待が増える一方、子供を叱れない大人も増えている。まず、叱ることと怒ることが別物だとも考えない。
叱るとは、その人のことを想い、注意を促すこと。怒るとは、自分の感情で押さえつけようとすること。だろう。
イラっとして、怒鳴ったり暴力を振るうことは、躾にはならないとボクは感じる。
その昔は、近所のオジさんにも怒鳴られたり、教師に叩かれたりしたが、現代ではそれはあり得ないことになる。
変人扱いや教育論にまで派生して、肝心なことが迷宮に入り込んでしまっている。もはや論ずるに値しないこと。
モンスター・ペアレンツなどは、エイリアンよりも不気味で不可解な存在なのだ。
*
一番肝心な『愛』をどこかに忘れてきたような気がしないでもない。では『愛』とは何か、なんて各々の問題だ。
混迷を極める社会の中に埋没してしまった『愛』を探すのは至難だ。自分で探すしかない。誰も教えてくれない。
だから、自分を複眼的かつ俯瞰で眺められる勇気を持つことが必要になるだろう。
スマートフォンを眺めて、人の痛みが映っているのか。ネットで簡単に検索したら、そこにあるのは答えなのか。
或は、メールやつぶやきに心が見えるのか。ネットで何かを知ったことにしているのか。ボクには判らないこと。
ボクは人の顔と向き合いたい。動きや表情、目の輝き具合を見ることを望むのだ。
*
別にそれで何かが判る訳ではないが、自分の中で、『愛』を発見する手掛かりを探ることは出来るかもしれない。
自分の哀れを家族や社会のせいにしていては、何も生まれない。自分が自分でなくなるだろう。喪失感と虚無感。
自分でない他人と『何か』があった時にこそ、人には『自分』が現れる気がする。
そういうボクもすっかり人と接していないから、心が乾涸びている。そこに、いかに潤いを得るかは自分次第だ。
衝突があろうとも、すれ違いがあろうとも。人と向き合い、隣り合わせ、自分からも目を背けないようにしたい。
もう少し調子がよく心が整えば、ボクも人に逢い、話がしたい。と願うのである。
*
そんなことに色々と想いを巡らせていたら、とても相応しい人と唄を思い出した。
この魅力的なオジさんを見る若者の表情や目が現代を象徴している気がするのだ。





![素材満載 ブログで作る かんたんホームページ [CD-ROM付き]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/61XF13WMY1L._SL160_.jpg)